歴史人物語り#52 名将・朝倉宗滴の後継にはなりきれなかった刀根坂で散った朝倉家の宿老、山崎吉家

スポンサーリンク

今回は越前朝倉氏の宿老、山崎吉家(やまさきよしいえ)
前回紹介した山崎長徳(やまさきながのり)の叔父と言われています。
麒麟がくる」で登場するかどうかは
明智光秀の朝倉氏仕官時代の描かれ具合によるかも?

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.山崎吉家とは

生年は不明。通称新左衛門尉
父は朝倉孝景の代から越前朝倉氏に仕えていた山崎長吉(やまさきながよし)
山崎吉家の名前が資料に出てくるのは、1531年8月の享禄の錯乱(きょうろくのさくらん
加賀へ朝倉軍が出兵した際が初見らしいです。
この時、朝倉家随一の名将朝倉宗滴(あさくらそうてき)に従って
今湊に出陣しています。
信長の野望シリーズなんかだと、この時を初陣ぐらいの年代として扱っているのか
吉家の生年が1516年に設定されていたりします。
朝倉宗滴といえば、死に際に織田信長の行く末を見たかったと言い残したことでも有名です。
斎藤道三と同じく信長の才能をいち早く見抜いていたと言われています。
そして宗滴は朝倉氏3代に渡って参謀として朝倉家を支え、
戦においては朝倉軍の大将として各地を転戦し武名を轟かせていました。
明確にはわかりませんが、おそらく宗滴存命の間は
山崎吉家は宗滴指揮下で槍働きをしていたのではないかと思われます。
なぜならば1555年に朝倉宗滴が無くなる前の加賀一向一揆攻めの際には
病に倒れた宗滴の代わりに大将となった朝倉景隆と共に吉家も出陣していますし、
宗滴が亡くなると宗滴が担当してきた越後・上杉氏との交渉役を引き継いでいるからです。
織田信長朝倉義景が対立するようになると、近江の安養寺や美濃の遠藤氏を通じて
武田信玄とも交渉をしています。
1567年の堀江景忠(ほりえかげただ)が謀叛を起こした際には、
魚住景方(うおずみかげかた)と共に討伐軍の大将として派遣されています。
(勝敗はつかず、堀江父子の能登亡命で終結
戦での戦い方や他家との外交交渉などは、傍にいた大将・朝倉宗滴から学んだのでしょう。
ちなみに、1568年8月に将軍家再興を目指していた足利義昭が越前朝倉館を訪れるのですが
この際には山崎吉家も謁見していて年寄衆として挨拶しています。
ちょっと話はずれるけど、明智光秀もこの頃は朝倉氏の家臣として仕えており
明智光秀の仲介によって織田信長足利義昭の上洛を手助けすることになります。
この辺は「麒麟がくる」での山崎吉家登場ポイントかもですね。

1.1.金ヶ崎の戦いから始まる織田家との激戦

1570年の織田・徳川連合軍との戦いである金ヶ崎の戦いでは
吉家は朝倉本隊第1陣として一乗谷を進発します。
しかし戦局は織田・徳川連合軍が序盤から優位に進めていて
結局、金ヶ崎城は陥落してしまいます。
そのまま織田・徳川連合軍は朝倉家の本拠地である
一乗谷を目指そうとしていましたが、ここで状況が一変します
信長の妹・お市の方を妻に娶った浅井長政織田信長を裏切って
朝倉義景の味方となり越前にむけて援軍を出すのです。
お市の方が信長にこの事態を知らせるために
両端を紐で結んだ小豆袋を送った逸話
多くの大河ドラマで定番のシーンとなっていますよね。
このままでは越前側と近江側とで挟み撃ちにされた結果
大打撃を受けかねないことを悟って信長はすぐさま撤退を決意。
この金ヶ崎の退き口とも言われる織田軍の撤退戦は
信長の戦いの中でも最も最悪な撤退戦と言っても過言ではないでしょう。
しかし、この撤退戦での朝倉軍の追討が甘かったことが原因で
織田信長は命からがらでも京都へ生き延びれたとも言われています。
朝倉家もこの当時は一門内で不穏な動きがあったりして
決して家内が統一できていたわけじゃないことが原因なんですよね。
名将・朝倉宗滴の教えを受けていた吉家としても
この挟撃によってあわよくば織田信長を仕留めたかったことでしょう。

織田・徳川連合軍が撤退すると
5月には吉家は総大将・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)の下、
近江へ出陣し美濃との国境まで進出。
赤坂・垂井などを放火した後、城砦の修築をするなど
織田家との次なる戦に向けての準備をした上での帰陣します。
これが姉川の戦いの直前の6月15日。
そうなんです、吉家は姉川の戦いには参戦していないのです。
思ったよりも速くに織田信長が攻めてきてしまったのでしょう。
吉家が参戦しなかったことがどこまで影響ががあったかはわかりませんが、
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の戦いは激戦の末、
織田・徳川連合軍の勝利となります。
ただし、両軍ともにこの戦で多くの戦死者を出しており、
特に浅井家は重臣遠藤直経(えんどうなおつね)を始めとして
浅井長政の弟・浅井政之、浅井氏庶流で宿老の浅井政澄弓削家澄今村氏直など
浅井家中枢を担ってきた武将が数多く戦死しています。
朝倉家においても、
武勇に秀でた猛将として名高い真柄直隆(まがらなおたか
直隆の息子・隆基(たかもと)
直隆の弟・真柄直澄(まがらなおずみ)が戦死しています。

1570年8月には摂津中嶋に進出してきた三好三人衆三好宗渭三好長逸岩成友通を討つべく
織田信長が岐阜から出立すると、浅井長政の要請で吉家は援軍として小谷城に入ります。
この際に、後に山崎丸と呼ばれる砦を築いています。
山崎丸以外にも戦に備えて砦を築いて攻撃に備えていました。
そして9月には近江に進出してきた朝倉軍本隊と合流し、
朝倉景健(あさくらかげたけ)と共に先陣を賜ることに。
そして浅井軍・一揆勢と共に西近江を南下していき、
坂本の地で織田家と再び相まみえることになります。
坂本の戦いでは織田軍の各務元正(かがみもとまさ)
肥田忠政(ひだただまさ)らの奮戦によって
宇佐山城を落城させることは叶わなかったものの
織田家重臣森可成(もりよしなり)織田信治(おだのぶはる)
青地茂綱(あおちしげつな)らを討死させています。

 ※以前公開した各務元正の記事はこちら!

tsukumogatari.hatenablog.com

 しかし坂本の戦いによって口火が切られた志賀の陣は3カ月ほど続く長丁場となり
これ以上反信長勢力の結束するのを嫌った信長が朝廷と足利義昭を動かして
講和に持ち込み、一時休戦となりました。
この戦いは織田信長にとっては大事な家臣を失う結果となった上に
反信長勢力の挙兵を許して信長包囲網が結成されるという
織田家にとっては厳しい状況が出来上がってしまいます。
ただし朝倉家としても織田家の侵攻を食い止めることはできたものの、
新たに領土を得ることはなかったし、織田信長を窮地に追い詰めながらも
金ヶ崎の退き口の時と同様に
織田家が傾く程のに大きな深手を与えることはできませんでした。
ここら辺の詰めの甘さがなければ、山崎吉家だけではなく
朝倉家の家臣たちももっと知名度が上がったんじゃないのかなぁと思ったりしたり。

1.2.吉家、刀禰坂の戦いにて散る

志賀の陣の後、織田信長包囲網によって多くの諸大名や一向宗が反信長勢力として
信長に対抗しますが、当時戦国最強と謳われるほどの実力者であった
武田信玄までもが西上作戦を決断して京を目指す動きを見せ始ます。
1573年の三方ヶ原の戦い徳川家康が散々な目に遭った話は有名ですよね。
信長包囲網を敷かれているとはいえ、浅井氏・朝倉氏との戦いでも
内部工作が効いてきて徐々に戦局が有利に傾いてきているところでしたから、
三河を順調に侵攻していく武田の軍勢は
信長にとって後背を狙われる最大の脅威だったでしょう。
ところが、4月に武田軍は京をそのまま目指すことなく甲斐に撤退していきます。
当主・武田信玄の病状が思わしくなく、療養のために引き返すしかなかったのですが
その撤退の道中で武田信玄が亡くなってしまうのです。
この信玄の死去は、朝倉軍にとっても大きな痛手となったはずです。
背後から狙われる脅威を気にせず朝倉・浅井軍に
織田・徳川の集中砲火がくることは目に見えていました。
さらに同年7月には槙島城の戦いで将軍足利義昭織田信長に敗れて
京都を追放されてしまい、信長包囲網は瓦解しかけていました。

そして1573年8月8日から始まる浅井氏の居城・小谷城攻めにおいて
浅井家家臣・阿閉貞征(あつじさだゆき)の織田家の寝返りが決定打となって
小谷城を包囲して完全孤立化させることに成功します。

 ※以前公開した阿閉貞征の記事はこちら

tsukumogatari.hatenablog.com

 小谷城の後詰めをするために朝倉義景も2万の援軍を越前から率いていて
小谷城を守るための城砦も築いていました
しかしその守備城砦の一つである大嶽砦が陥落すると形勢不利と悟って、
朝倉義景は越前への撤退を決めます。
朝倉軍が撤退をし始めると、それをそもそも読んでいた織田信長
自身の本隊を率いて朝倉軍を追撃します。
そして義景が撤退目標として定めた越前疋壇城(ひきだじょう)への
道中となる根坂で、織田軍の更なる猛追を受けるのです。
この刀根坂の戦いにおける殿を務めることになったのが山崎吉家です。
吉家の弟である吉延(よしのぶ)を始めとして嫡男の吉健(よしたけ)や
山崎一族の多くがこの戦線に参戦していました。
しかし織田軍の苛烈な追撃には耐え切れず、朝倉軍は壊滅状態。
山崎吉家は一族と共に戦死してしまいました。
一方で主君・朝倉義景は少数の手勢と共に一乗谷へ帰還することはできたので
吉家としては殿としての役目は果たしたことになるので
死んでも本望だったかもしれません。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの山崎吉家

麒麟がくる」で明智光秀の朝倉家臣時代を
どれぐらいのスパンを取るのか、あるいはほぼ飛ばすのか知りませんが
前述したように、越前に足利義昭が訪問する前後ぐらいから
登場する可能性はあると思います。
正直朝倉家で著名な武将って一門を入れても数名しか思いつかないので
逆に登場しやすい状況にはあるかもしれません。
特に、山崎吉家は朝倉家の参謀であった朝倉宗滴の後継的役割を果たしていた人物ですしね。
もしも明智光秀の朝倉家時代を少しでも濃密にやるとしたら
山崎吉家は朝倉家の宿老ですから、当然絡みもありそうです。
あとは光秀が織田家臣となってからの金ヶ崎の戦い、志賀の陣、
そして最期の刀根坂の戦い辺り。
光秀の朝倉家臣時代に吉家との絡むシーンがあったりすると
刀根坂の戦いで伏線を回収するようなストーリーも作れたりするかもですね。

そして信長の野望シリーズでの登場は
天翔記、天道、創造、創造 戦国立志伝、大志の計5回
天翔記から天道までは長い間登場していなかったみたいです。
天翔記での評価値はどちらかというと戦闘系寄りの評価値なんですが
天道からは政治系の評価値が高めとなっています。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値がこちら。

f:id:tsukumoshigemura:20190923220743p:plain

なんとなく納得できる評価値です。
戦闘系は戦場での目立った活躍ってういのが見えてこないので
50近辺でも妥当かなぁと思います。
朝倉宗滴から戦術を伝授されていた、
みたいな逸話あったりしたらよかったのにと思いつつ
一族ほぼ全滅しちゃってるからなぁ。

3.まとめ

今回は越前朝倉家の宿老、
もしかしたら朝倉宗滴の弟子だったかもしれない山崎吉家した。
朝倉家については、朝倉義景の思い切りの悪さとか
決断力の乏しさとかが滅亡に導いた気がします。
山崎吉家は最期まで朝倉家に尽くして戦死しましたけど
織田家へ寝返った家臣がいたり、
小谷城へ援軍を送る際には従軍拒否する家臣がいたり
朝倉家中は一致団結して戦っている状態ではありませんでした。
金ヶ崎の退き口は信長討伐の絶好のチャンスだったはずなのに
あそこで信長を仕留められなかったことを
きっと吉家は最後まで悔やんでいたんじゃないかなぁ
っていう妄想をしてみたり。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!