歴史人物語り#58 朝倉宗滴の廃嫡された息子の噂もある朝倉氏出身の僧侶・古渓宗陳は千利休の師匠

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今回は古渓宗陳(こけいそうちん)臨済宗のお坊さんです。
武将以外の人物をメインにした記事は今回が初めてです。
麒麟がくる」には出てこないのでしょうけど
最近メインで書いている朝倉氏に関係のある人物として
今回ピックアップしました。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com


その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.古渓宗陳(こけいそうちん)とは

蒲庵の号もあり、蒲庵宗陳(ほあんそうちん)としても知られています。
越前出身安土桃山時代臨済宗の僧侶です。
1532年生まれ
朝倉氏の出身なんですが、朝倉宗滴の一周忌にその死を悼んでいることから
宗滴に廃嫡されて仏門に入ったと伝わる宗滴の子どもなのではとも言われているのです。
※朝倉氏に関する著書の多い松原先生のこちらの書籍が詳しい

越前朝倉氏の研究

越前朝倉氏の研究

 

 古渓宗陳は出家して下野の足利学校で修学した後、
京都大徳寺江隠宗顕(こういんそうけん)に師事しました。
1573年には堺南宗寺笑嶺宗訢(しゅうれいそうきん)に師事して
法嗣(ほうし)となり南宗寺から大徳寺の住職となります。
ちなみに法嗣とは要はお坊さんのお弟子さんのこと。
詳しくはWikipediaの引用をご覧ください。

法嗣
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

法嗣(ほうし、はっす)とは、師匠の教えを受け継いだ人のこと。

師資相承(ししそうしょう)により、師から仏の法と印可を継承し、またその法を後の弟子に伝える人。仏法上の弟子。主に禅宗密教で用いられる用語。禅宗では「はつす」あるいは「はっす」と読む。また「ほっし」と読む場合もある。

引用元:Wikipedia

 この堺に居た頃にわび茶で大成した茶人であり商人でもある
千利休(せんのりきゅう)と知り合い、
古渓宗陳は利休の禅の師匠となるのですが
この二人の縁は後々まで続いていくことになります。

 古渓宗陳が住職になった際には利休から祝儀を受けたそうで
逆に古渓宗陳は利休に対して「抛筌斎(ほうせんさい)」の号を授けたとか。
「抛」は放り投げるの意味があり、「筌」は魚を捕る竹製の道具ののこと。
利休の家は元々塩魚を扱う商人に倉庫を貸すことで生業を得ていた商人でした。
つまり、「筌」は商人を表していて
商人を捨てる覚悟で茶人として大成するという
利休の強い意志を表している号だと解釈されたりしています。

「利休」の号も古渓宗陳が考えたという説があります
このように師弟関係にあったこともあり二人の関係性は深く
信長が1582年に本能寺の変で亡くなった際には
利休からの依頼で信長の百ヶ日法要を行っていますし、
羽柴秀吉が信長の葬儀を行った際にも導師を務めています。

1583年には大徳寺総見院(そうけんいん)を開創しています。
この総見院秀吉が建立した大徳寺22塔頭寺院の一つです。
秀吉がおこなった信長の葬儀は大徳寺で行われたのですが
信長の1周忌に間に合わせるようにこの総見院立てて
織田信長菩提寺としたのです。

www.rinnou.net

1584年には秀吉が新たな信長の菩提寺として
京都の船岡山天正寺を
創建する計画を立てて、
その責任者として古渓宗陳が任されます。
ただし、天正寺は創建の計画はされたものの実際に建てられることなく
計画は立ち消え状態になってしまいます。
これが原因で古渓宗陳が秀吉と対立したのかどうか、
1588年に九州の博多へ配流となってしまいます。
一説では石田三成との間に軋轢があって
三成の諫言によって秀吉の勘気を蒙ったからとも言われています。
ただし、石田三成との軋轢説については、
この時期の話は何かと三成が悪者にされていることが多いので
あまり鵜呑みにはしない方がいいのかも。

配流された博多では、
博多の豪商・神屋宗湛(かみやそうたん)とも交流を持ったとか。
そしてその後、配流された古渓宗陳を助けたのは、やはり千利休でした。
また、秀吉の弟・羽柴秀長(はしばひでなが)
この手助けをしたそうです。
利休と秀長の援助によって流罪が赦されて京都へ戻ることが叶います。
戻るにあたって秀長が古渓宗陳の後見人になったそうです。
しかし1591年に、その助力をした二人に不幸が起きてしまいます。

1591年の正月に秀長が亡くなってしまうのです。
秀長の葬儀では、古渓宗陳が導師を務めています。

さらにこの年に利休が突如秀吉に切腹を命じられて亡くなってしまいます
この利休切腹命令の原因の一つとなったのが
大徳寺三門の2階にまつられていた利休の木像です。
この木像は草履をはいており、
高貴な人間が通る三門の上に草履履きの利休の木像を置くということは、
高貴な人間の頭を踏みつけるのと同じだとして
秀吉が激怒したと言われています。
慢心のあった秀吉に対する戒めとしてわざと2階に設置して
その下を秀吉にくぐらせようとしたという話もありますが
大徳寺において寄進した人の像を安置することは慣例であり
利休に限ったことではありません。
木像が設置されてから1年も経過していますし、
たまたま2階に設置されていたのを理由にこじつけた印象操作の一環でしょうか。

この利休の木像に対する秀吉の激怒は収まらず、
大徳寺自体破却しようと使者を送ったそうです。
訪れた使者を前にして古渓宗陳は懐から短刀を取り出し
決死の覚悟で抗議します。
その心意気に感服した使者たちが、秀吉に破却取り下げを願い出て
秀吉も破却を思い留まったと言われています。
ちなみに使者として赴いたのは、
徳川家康前田利家細川忠興前田玄以の4人だったそうです。

古渓宗陳は1597年3月5日に亡くなっていますが、
晩年は洛北の市原にある常楽院に隠遁したそうですが
利休の墓のある大徳寺聚光院(じゅこういん)の住職も務めていたとか。
無念の死を遂げた弟子・利休を弔うためだったのでしょうか。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの古渓宗陳

冒頭でも言いましたが「麒麟がくる」では出てこないでしょう。
光秀との絡みも接点も全くなさそうですし、
どちらかという本能寺の変の後に世に出てくる人物ですからね。

そして信長の野望シリーズでも登場していません。
本願寺勢はともかくとして、お坊さんでも武将としては
何人か登場したりしますし、イベント限定でも出てきたりはします。
1586年から始まるシナリオとかだと千利休が登場するので
そのシナリオで今後登場することはあるかもですね。

3.まとめ

今回は、朝倉宗滴の息子と噂のある古渓宗陳でした。
千利休の禅の師匠でもあったことから
天下人となった秀吉の覚えもめでたかったものの
その関係故、晩年は疎まれた可能性もあります。
しかし、もしも宗滴の息子だとすると
宗滴は何故廃嫡してしまったのかが気になるところですね。
もしも廃嫡されずに宗滴の跡を継ぐ武将として成長していたら
朝倉家滅亡も回避できたかもしれません!

また、古渓宗陳に関してはこちらの本が詳しいので興味持たれた方はどうぞ!

古溪宗陳―千利休参禅の師、その生涯

古溪宗陳―千利休参禅の師、その生涯

 

 では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!