歴史人物語り#76 近江守護の家宰でもあった多賀氏の末裔・多賀貞能とその養子になった多賀秀種の兄は名将・堀秀政、そして多賀常則は卅六飛将の一人

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今回は本能寺の変後の山崎の戦い明智光秀味方をした
多賀貞能(たがさだよし)
その養子となった多賀秀種(たがひでたね)
そして多賀貞能とは別系譜の多賀氏である
多賀常則(たがつねのり)です。
多賀秀種は名人久太郎と賞され信長にも秀吉にも
重用された堀秀政(ほりひでまさ)の弟だったりします。
麒麟がくる」に出るかは微妙なところではあるけれど。。。

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では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com


その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.多賀貞能(たがさだよし)とは

通称新左衛門
生年は不明。父は多賀貞隆(たがさだたか)

多賀氏は近江守護の京極氏に仕えた被官であり
京都所司代を務めていたりもする名家です。
貞能の父・貞隆も京極高清に仕えており
後に、京極氏が家騒動によって勢力が弱まり
浅井亮政(あさいすけまさ))が台頭するようになると
六角定頼(ろっかくさだより)に属して、浅井亮政と争うようになります。
ちなみに、浅井亮政の家臣、海北綱親(かいほうつなちか)
多賀貞隆の屋敷を襲撃した際に討死したとも言われています。
海北綱親といえば浅井家臣の中でも「海赤雨三将」と呼ばれた名将です。
※父と子が同じ通称を名乗っていたと思われるため、父子のどちらがそう呼ばれたのか
父子二人ともそう賞されていたのか。

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多賀貞能は近江高島郡を領有していましたが
父の頃と同様に六角氏に属していたのかどうかよくわかりません。
浅井氏の家臣としても入れられていることがあったりして
どっちになるのか素人の私にはよくわからないんですが(笑)、
ひょっとすると、浅井長政野良田の戦いで六角氏を破ってから
浅井氏に属したのかもしれません。
でも、どっちにしても多賀貞能は織田信長に従うようになります。
1572年から始まる浅井氏との戦いにおいては
丹羽長秀の配下として虎御前山に陣を構えて参戦し、戦功をあげているそうなので
浅井氏家臣だったとしたら、姉川の戦いを前後にしてなのか
六角氏家臣だったとしたら、上洛作戦で六角氏が倒されてからなのか、
時期がよくわかりませんが、どちらかのタイミング辺りで織田家臣となったのでは。

ちなみに多賀貞能力が陣を構えた虎御前山には多賀貞能の陣跡が
今でも残されています。
また、虎御前山は浅井氏の居城・小谷城を攻める上での
重要な戦略拠点として砦が築かれた場所であり、
宮部継潤(みやべけいじゅん)が居城としていた宮部城にもほど近く、
信長が宮部城から虎御前山へと続く悪路を軍道に整備させたりしています。

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さて、その後の多賀貞能の動向はよくわかっていないんですが
堀秀政(ほりひでまさ)の弟の堀秀家が
羽柴秀吉の薦めで多賀貞能の養子となって、多賀秀種と名乗っています。
しかし本能寺の変が起きて織田信長が敗れた後には
明智光秀に与したようで山崎の戦いで従軍しています。
山崎の戦いでは羽柴秀吉が勝利を収めたために
多賀貞能は領地を没収されて、京都の東福寺に蟄居の身となりました。
晩年どのように過ごしたのか不明ですが1587年に亡くなっています

2.多賀秀種(たがひでたね)とは

通称源助
1565年生まれ。父は堀秀重(ほりひでしげ)
何を任せても無難にこなすことから名人久太郎と言われた堀秀政の弟です。
近江高島郡を領有する国人、多賀貞能に男子がいなかったために
多賀貞能の娘を正室として婿養子となります。
しかし、1582年の山崎の戦いでは明智光秀に与したために
高島郡の所領は没収されてしまい、養父・貞能は蟄居の身となるんですが
養子の秀種は兄である堀秀政の家臣となり、8千石を領しました。
兄が留守の際には当時の秀政の居城・佐和山城の城代を務めています。
しかし兄の秀政は疫病にかかってしまい
1590年に38歳という若さで亡くなってしまいます。
兄が亡くなった後は、秀吉の弟・豊臣秀長に、次いで秀吉自身にも仕えるようになり
小牧・長久手の戦い小田原征伐文禄・慶長の役など主要な戦線に従軍し
大和神楽岡で2万石を領する大名となります。

秀吉の恩顧を受けていたこともあったでしょうが
秀種は関ヶ原の戦いでは西軍に属して、前哨戦の大津城の戦いに参戦しています。
大津城の戦には「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」
秀吉に賞賛された立花宗茂(たちばなむねしげ)も西軍として参加しており、
大津城を落城させるのですが、大津城が開城したのは関ケ原当日
関ケ原での戦いがその日の正午には決着がついてしまっていたことから
本来関ケ原で戦うはずであった1万5千の兵が本戦には参加できないという事態に。
果たしてこの大津城攻めの軍が間に合っていたらどうなっていたのか。

if話は置いておいて(笑)、
秀種は西軍に属していたために1610年に再び改易処分となってしまいます。
兄・堀秀政の嫡男・秀治を頼るんですが、甥の秀治の嫡男・忠俊(ただとし)の代に
御家騒動によって堀家が改易処分となってしまい、再び浪人となります。
秀種のいるところは改易処分になる運命なのか!?(笑)
でも最後は加賀百万石の前田氏に仕えていますから、
そこでジンクスは消えたようです(笑)
前田氏に仕えたのは1615年の大坂の陣の頃で、
大坂の陣で戦功を上げたことによって
前田利常に6千石で召し抱えられたそうです。
しかし、翌年1616年11月に亡くなってしまいます享年52歳

3.多賀常則(たがつねのり)とは

通称新左衛門尉
生年、父ともに不明。
多賀貞能と同じく近江の多賀氏なんですが
多賀貞能は豊後守と称した系統の多賀氏であるのに対して、
※貞能はそのわりに信濃守なんですけどね・・・(笑)
多賀常則は出雲守と称した別系統の多賀氏のようです。

多賀常則は浅井長政に属していたようですが、その後信長に仕えて
1570年には近江南部の大津穴太(おおつあのう)において浅井・朝倉軍と戦っています。
1573年朝倉攻め1581年伊賀攻め1582年甲州征伐にも参戦しており、
その働きぶりから卅六飛将(さんじゅうろくひしょう)として
信長より朱旄を許された一人と言われています。
ちなみに卅六飛将には多賀秀種の兄で名人久太郎の堀秀政も名を連ねています。
甲州征伐の後には、丹羽長秀堀秀政らと共に信長に暇を与えられて
草津温泉での湯治を許されているそうですから、
やっぱり信長にも覚えがめでたい武将だったのでしょう。

本能寺の変がおこった後は秀吉に属したようですが、
その動向はよくわかっていません。
1584年の小牧・長久手の戦いにおいても、300の手勢を率いて参戦。
その後は秀吉の弟の羽柴秀長の家臣となり大和に2千石の知行を与えられています。
1587年2月に秀長に従って九州征伐に参戦するのですが、
4月20日に病気のため陣中で没してしまったそうです。
※ただし没年には1589年説、1598年説もあって定かではありません。

4.多賀氏は明智光秀と古くから関係があったりする!?

麒麟がくる」になんで今回本当に一番書きたかったのはこの章なんですが、
多賀氏は明智光秀と、もしかしたら古くから繋がりがあったのかもしれません。

多賀氏は、元々の出自が多賀地方の土着の豪族であり
その先祖は多賀神社の神官を務めていたこともあるそうです。
そのため多賀氏は鎌倉時代ごろから多賀地方で大きな勢力を持っており、
室町時代には近江守護の京極氏の家宰を務めるほどでした。
しかし豊後守家と出雲守家に分家してから両家の対立が激しくなり
応仁の乱では主家である京極氏家中でも分裂して内乱が起きるようになり
内乱でもめてるうちに多賀氏も多賀地方での勢力が弱まっていきます
多賀貞能の系統である豊後守家は一時期近江を追い出されて京にいたこともあります。

ところで、その多賀地方なんですが
明智光秀がこの地方にある佐目という場所で生まれたのでは?
っていう説があるんですよね。
明智光秀の祖父なのか父なのかどっちかよくわからないけど
明智十左衛門と名乗る人物が、
元々仕えていた美濃守護の土岐氏を裏切り、
近江の六角氏を頼って佐目で居を構えたというのです。
その屋敷の跡がこちら。

akechi.taga-kankou.com

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この話は大河ドラマが決定してからわたわたとあがってきた話みたいで
確か、この跡地に看板立てたのも大河決定してからだったような?
口伝でこの地には明智光秀の屋敷の話が伝承されていたみたいなんですよね。

それから多賀神社を運営していたと言われる近江国司36人衆の中に
多賀新左衛門小川土佐守阿閉淡路守の名があるんだそうです。
多賀新左衛門はおそらく多賀貞能。
小川土佐守は小川祐忠(おがわすけただ)

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阿閉淡路守は阿閉貞征(あつじさだゆき)

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この3人とも明智光秀本能寺の変を起こした後に、
光秀に味方をしています
ついでにいうと近江守護・京極氏の血を引く京極高次(きょうごくたかつぐ)も
明智光秀に味方をしているんですよね。
もちろん、彼らが明智光秀に与したのは
様々な理由があってのことでしょうし、
明智光秀が近江坂本を居城としていたことから
近江衆との繋がりもあったんでしょうが
明智光秀近江出身説からも意味深に感じる繋がりを妄想できちゃうのが面白いです。

5.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの多賀氏は?

麒麟がくる」では多賀氏の3名いずれも登場するのかどうか。
明智光秀に加担した多賀貞能と多賀秀種は登場するかもしれませんね。
光秀近江出身説を前提としたような話だと
多賀氏含めて面白いストーリーにできそうな気もしますが
麒麟がくる」は明智光安(あけちみつやす)が序盤の主要キャストで
登場する時点で近江出身説は関係ないわけで(笑)

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信長の野望シリーズではどうかというと、
多賀常則は多分登場経験がありません
多賀貞能と多賀秀種は、嵐世紀や天道で登場経験はありましたが
常連ではありませんでした。
創造からは登場するようになってきているので
今後は常連扱いなのかもしれません。
信長の野望・創造 戦国立志伝における評価値はこちら。

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養父・貞能はまだ平均で50超えしてるからマシですが
秀種の方はちょっと壊滅的な能力値になっております(笑)
兄と比べると雲泥の差です。

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兄の堀秀政のが有名だから仕方ないけど
ちょっと差を付けすぎでゲームだと最初の登場から
姓も違うから堀秀政と兄弟って知らない人もいそうな気がします(笑)

6.まとめ

今回は近江多賀地方で一大勢力を持っていたこともある
多賀氏の末裔、多賀貞能多賀秀種多賀常則でした。
多賀氏のことはともかく(?)、
明智光秀の出自は謎だらけですが
近江出身説はちょっと面白そう
佐目周辺に住んでる人たちの間では、
十兵衛屋敷があったっていう話とかは
小さい頃とかに聞いていた話で知ってはいたらしんだけど
麒麟がくる」が決定するまでは
世間の噂話ぐらいでとどまっていた感じみたいです。
大河ドラマの決定って地方興しの一つにもなったりするから
この決定によってクローズアップされたんでしょうけど
こういう地元のみで埋もれちゃってる伝承話って
他にもいろいろあるんでしょうね。
意外とそこには歴史として一般的には伝わってはいない真実があるのかも。
そんなウソか真かわからないけど伝わってる話あるよってことがあったら
こっそり教えてください(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!