歴史人物語り#90 江南の旗頭の山岡兄弟、景隆・景佐・景猶は明智光秀の畿内掌握を遅らせた張本人か?もう一人の弟・景友は次回です

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今回は元は六角家臣ですが信長に仕えて以降は
信長の臣として忠義を尽くした山岡一族の
山岡景隆(やまおかかげたか)
山岡景佐(やまおかかげすけ)
山岡景猶(やまおかかげなお)です。
山岡道阿弥(やまおかどうあみ)はいないの?って思った方は
戦国武将通かもしれません。
道阿弥は次回に登場します。
麒麟がくる」では山岡兄弟揃って登場するに違いない!

www6.nhk.or.jp

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.江南の旗頭・山岡氏

山岡氏は甲賀発祥の一族であり、
近江の勢多城を拠点として近江志賀郡、粟田郡を治めていた国人です。
「江南の旗頭」と呼ばれるほどの実力者であり
近江守護・六角氏の軍事中枢を担う有力な家臣でもありました。

今回紹介する山岡兄弟の父・山岡景之(やまおかかげゆき)
六角氏綱(ろっかくうじつな)の代に活躍した人物。
六角氏綱は六角氏最盛期を築いた六角定頼の兄
氏綱が早くに亡くなって六角氏を継いだのは弟の定頼という説が一般的ですが
異説としてこの氏綱の系統の六角義実(ろっかくよしざね)
六角義秀(ろっかくよしひで)
六角氏の家督を継いでいたという話もあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

また、山岡景之の妻は和田惟政(わだこれまさ)の娘。
和田惟政近江甲賀村出身であり、
甲賀五十三家の中でも
甲賀二十一家(こうかにじゅういっけ)に数えられた家の出身。
鈎の陣(まがりのじん)と呼ばれる室町幕府が六角氏討伐をおこなった戦いにおいて
六角氏に味方をした甲賀地侍たちを「甲賀五十三家」と言いますが、
その中でも六角氏から感状を貰うほどの信頼を得ていた二十一家のことを
甲賀二十一家」と言います。
ただゲームの信長の野望をやったことある人たちは
「え?」って思うかもしれません。
ゲームだと和田惟政は足利家の家臣に配属されていますからね。
そうなんです、和田氏は元は六角氏の家臣。
正確な時期はわかってないようですが
和田惟政の父の代に足利義輝幕臣になったようです。
※京を追われた足利義輝が六角氏を頼って近江に遁れた際に
和田氏との間に関係が生まれたのではないかと言われています。

ちょっと話が和田惟政の方に逸れちゃいましたけど(笑)、
山岡氏も和田氏も甲賀出身であり六角氏家臣であったことから
友好的関係を元々持っていて婚姻関係を結ぶに至ったのかもしれません。

そしてこの山岡景之には10人も子供がいたようです。
中でも4人の兄弟は
戦国時代から江戸時代にかけて存在感を示す活躍を残しています。
今回は4人の兄弟のうち
景隆(かげたか)景佐(かげすけ)景猶(かげなお)の3人。
本当は四男の景友(道阿弥)も入れる予定だったんですけど
ちょっと長くなっちゃうので別立てにしてます(笑)

1.1.山岡景隆(やまおかかげたか)とは

生年1525年。山岡景之の長男
六角家臣であり、足利義輝にも属していたようです。
一時期、大河ドラマ功名が辻の主人公・山内一豊(やまうちかずとよ)
浪人時代にこの景隆の家臣だったこともあるそうです。

1568年に信長が足利義昭を奉じて上洛を目指し近江へ侵攻した際には、
信長からの降伏勧告を拒否して抵抗しています。
しかし翌年には織田軍の攻撃を受けきれず大和へ逃亡。
大和の戦国大名松永久秀(まつながひさひで)に人質を差し出して
一時家臣になっていたました。
それも長くは続かなかったのか、
あるいは松永久秀が信長に属したことが機になったのか
後には織田信長に降伏して家臣となっています。
家臣となってからは、佐久間信盛(さくまのぶもり)の元に配属

前述したように、山岡氏は甲賀出身だっため
信長も景隆のその出自を配慮してなのか
甲賀衆の指揮権を景隆に与えていたそうです。
景隆自身も、信長の家臣となってからは忠義を尽くしており
1573年に信長と対立していた足利義昭との戦いでも戦功を挙げています。
1575年頃には信長とその子・信忠が京都の行き帰りで
景隆の治める勢多に度々宿泊していたそうですから
この頃には既に信頼を得ていたのでしょう。
その後の1577年の雑賀攻め1581年の天正伊賀の乱でも従軍しています。

しかし1582年明智光秀織田信長本能寺で斃してしまいます。
おそらく光秀にとって江南の旗頭山岡氏を味方につけることは
今後の戦略においても重要なポイントの一つだったでしょう。
特に景隆の弟の景佐(かげすけ)と景猶(かげなお)が
明智光秀の与力だったこともあり、
山岡氏が味方になってくれる想定でいたかもしれません。

ところが山岡3兄弟、揃って明智光秀に反抗します。
光秀からの勧誘を断ったばかりか
明智軍が安土へ進軍するのを阻止するために
瀬田の唐橋と勢多城を焼いてしまいます
瀬田の唐橋は、瀬田川に架かる唯一の橋
当時、東海道東山道方面から京都へ向かうためには
琵琶湖を渡るか、南北いずれかの迂回ルートをとるか、
この瀬田川を渡るか、いずれかしかなく、
この橋を制する者は天下を制すると言われたほど重要な橋です。
そのため古くからこの橋は存在していたものの、
火事で燃えたり追ってから逃げるために焼かれたり壊されたり
散々な目にあってる橋です(笑)

織田信長旅人に配慮してこの唐橋の架け替えをおこなっており
山岡景隆架橋奉行の一人でもありました。
橋の長さは324m、幅7.2m
この橋が焼かれて仮の橋を架けるのに光秀は3日ほどかかったといいます。
光秀的には余計な作業だったに違いありませんね(笑)

勢多城を焼き払った景隆たちは山中へ逃亡し、
光秀軍の行動を常に羽柴方に報告していたそうです。
そのため明智軍は安土城への進軍も邪魔されまくって
時間的余裕を失ったと言われています。

明智光秀には反抗して羽柴方に協力した景隆なんですが
光秀が山崎の戦いで敗れた後はそのまま秀吉に与するかと思いきや
柴田勝家に味方しています。
しかし、柴田勝家が賤ケ岳の戦いで秀吉に敗れると
景隆も秀吉に降伏。
命は許されますが、弟の景佐と共に所領は没収されてしまい
以後は甲賀で隠遁生活を送ったそうです。
1585年2月13日死去。享年61歳でした。

1.2.山岡景佐(やまおかかげすけ)とは

生年1531年。山岡景之の次男
兄・景隆同様に六角氏に仕えていましたが
後に織田信長に降伏。
降伏した後は、弟の景猶(かげなお)と共に明智光秀麾下に配属されます。
光秀の元では
1572年に降伏した松永久秀の代わりに多聞山城の在番を任されたり
1576年には本願寺攻めに参加するなど、明智軍として各地を転戦。
しかし明智光秀丹波平定戦には参加しておりません
光秀の丹波平定戦の頃は、
信長の直属かもしくは佐久間信盛の配下になっていたようです。
織田信長あるいは佐久間信盛の下で茶会に参加した記録が多くみられるそう。
以後は、1579年の有岡城攻め(信長に背いた荒木村重の討伐)
1581年の天正伊賀の乱に従軍。
そして1582年、信長が本能寺で討たれる直前の頃には
蒲生賢秀(がもうかたひで)と共に安土城の二の丸の守備に就いていました。

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本能寺の変が起きてからは兄・景隆のところで述べた通り
光秀には従わずむしろ徹底抗戦
さらに景佐は徳川家康の伊賀越えも手助けしたとも言われています。
光秀が斃れた後は、
兄・景隆と違って秀吉に属しているんですが
1583年の賤ケ岳の戦いの後に柴田勝家に内応したという嫌疑をかけられて
兄・景隆と共に改易処分とされてしまいます。
その後は徳川家康の家臣となり
1589年1月に駿府で死去享年59歳でした。

1.3.山岡景猶(やまおかかげなお)とは

生年不明。山岡景之の三男
元は近江志賀郡円城寺に籍をもつ僧侶。
1567年には六角氏からすると敵領内である尾張に滞在していた時期があり
この時に連歌師で有名な里村紹巴(さとむらじょうは)と交流があったそうです。
織田信長足利義昭を奉じて上洛すると
信長配下となり、明智光秀の元に配属されています。
1570年には近江国内で2050石を与えられており
1571年におこなわれた比叡山焼き討ちでは
信長が三井寺山内にある景猶の屋敷から指揮をしたと言われています。
1572年には明智光秀指揮の下、
猪飼昇貞(いかいのぶさだ)率いる堅田衆と共に
湖上から琵琶湖周辺で起こった一揆衆への攻撃をおこなっています。

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1573年足利義昭が信長打倒のための挙兵を起こすと
景猶は義昭から討伐軍へ加わるように誘いをうけたそうですが
これを断り、槙島城攻めで戦功をあげたそうです。
その後の越前朝倉氏討伐の一乗谷の戦いにも従軍しています。

本能寺の変織田信長明智光秀に斃されると
兄と共に明智光秀の誘いを断り安土への進路妨害をするなど抗戦
光秀が秀吉に斃された後は、景佐と共に秀吉に属します
柴田勝家が賤ケ岳の戦いで敗れた後に
柴田勢への内応の嫌疑をかけられて改易処分
以後は加藤清正に仕えて
1588年に清正の肥後入国と当時に起こった天草一揆の鎮圧で
武功を挙げています。
秀吉が亡くなった後は徳川家康に接近し、
家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)に仕えたそうです。
その後の詳細な動向はわかっていませんが
1599年に亡くなったようです。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの山岡兄弟

麒麟がくる」では絶対出てくると思っています、出してください(笑)
本能寺の変後の明智光秀の苦戦ぶりは見てみたいでしょう?
というか、本能寺の変で信長を討ち取るまでは見事だったのに
それ以降があまりぱっとしない感じにうつる明智光秀
何故、うまく畿内を掌握できなかったのかということも含めて
山崎の戦いに至るまでの過程の話は
ストーリー上も重要になるんじゃないかと思っているんですよね。
だとすれば、光秀の勧誘を断って邪魔しまくった
山岡兄弟は出てこないとダメでしょう?(笑)
景佐と景猶は明智光秀の指揮下で働いていた時期もありますからね。
ここら辺で山岡氏の存在感を見せつけて
知名度を上げてほしい!
※ついでに比叡山焼き討ちのシーンがあったら信長がいる屋敷に注目しましょうw

だって信長の野望シリーズに
兄弟誰一人として登場したことないんですもん(笑)
もちろん父の景之も。
この「麒麟がくる」で主人公・明智光秀を苦しめる一族として有名になって
信長の野望シリーズでも登場するようになることを願っています!

3.まとめ

今回は明智光秀に味方しないどころか徹底的に抗った
山岡景隆山岡景佐山岡景猶の3兄弟でした。
本当はもう一人の山岡景友も今回に含めたかったんですけど
ちょっと景友はそれなりに情報が厚いので
別立てにした方がいいと判断しました。
信長に仕えるまでは景友は義昭の家臣として尽力していたし
兄弟の中では徳川家康にもかなり気に入られて重用されていたので
別立ての方が違和感ないかなぁとも。
いずれにしても山岡氏は兄弟誰もが有能だったように感じます。
これだけ兄弟多いと誰か一人ぐらいダメそうな人が居ても良さそうだけど(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!