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「麒麟がくる」第33話は古く悪しき者たちを成敗する戦いが始まった回

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「麒麟がくる」第33話は古く悪しき者たちを成敗する戦いが始まったの回
麒麟で学ぶ」
第33回目です。
今回の記事を読むと以下の事がわかります。
  1. 志賀の陣をもっと詳しく
  2. 比叡山とは
  3. 信長さま以外に比叡山と戦った人たち
  4. 比叡山と信長さま、どちらが悪か?
  5. 坂本城を作りたくなる←
最後はわかる事じゃなくてやりたくなる事(笑)

さて本シリーズの前提事項的なものを
毎回0章に記載していますので、
初めて本シリーズの記事を読む方は
さらっと一読していただけると
助かります。
既に読んだことのある方は
読み飛ばして頂いてかまいません。

また前提の一番最初に記載していますが
本シリーズは「麒麟がくる」の
ネタバレを含みます
当日の放送や再放送も見逃して
まだ視聴されていない方は
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオ
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
見逃し分を視聴できます。
こちらで視聴した上で本記事を読まれると
いいかもしれません。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。

※本記事掲載のAmazonプライムビデオおよびU-NEXT配信情報は、2021年3月31日時点のものです。
最新情報については各サイトにてご確認ください。

しかしネタバレ含んでいるけど、
本記事を読んでから視聴すると
少し前提知識が入った上での視聴になるので
それはそれでいいのかもしれませんけどね。

そして「麒麟で学ぶ」の過去分については
こちらからどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

では今回のお品書きはこちらになります。

ちなみに2019年12月15日から更新中の
麒麟がくる」公式サイト公式Twitterもブックマーク、フォローしておくと
より一層「麒麟がくる」を楽しめると思いますので
まだの方は是非とも。
→2021年3月31日をもって公式サイト・TwitterInstagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!

0.本記事を読むにあたっての前提など

1.「麒麟がくる」第33話「比叡山に棲(す)む魔物」からの学び

まずは全体の感想から。

今回は比叡山がメインなので
比叡山に始まり比叡山で終わったな
というのが感想?(笑)
おかげで今回の記事も
完全に比叡山に食われてしまった形に。
比叡山焼き討ちを行うにあたって
これまでに見たことのないような
怒りと苦しみが入り混じった表情
長谷川十兵衛は見せてくれた気がします。
苦渋に満ちた、というのは
きっとああいう顔なんだろうな、と。
女子供皆切り捨てよという命令に歯を食いしばって従う明智十兵衛光秀

ただちょっと気になってるのは・・・
というかそもそも比叡山の焼き討ち前から
気にはなっていたんですが
駒がこの事件に対してどう思うのか。
しかも、今回駒の知り合いの子が
巻き込まれて死んでいます。
信長さまの戦は公方さまの戦でもある
という理解をしていた駒ですが
この比叡山の焼き討ちによって
信長さまと公方さまが離れていくように
十兵衛と駒も距離をとるようになるのか?
というのも気になる所ではあります。

せめてあの子の妹は十兵衛の計らいで
見逃されているといいんですが。。。

それにしても松永久秀、怒り心頭モード爆発。
筒井順慶も同席していることに怒り心頭の松永久秀
今回松永久秀が織田方を離反した理由が
信長さまを嫌ったからではなく
公方さま、そして幕府が嫌になったから
という事、しっかりと伝わってきましたね!
幕府っていうか摂津晴門かな(笑)

あともう一つ。
なんかちょっとデジャブ感があるなぁと
思ったシーンがあって。
それがこちらです。
比叡山攻めのやり方におそらく納得はしていない明智十兵衛光秀
誰もいない軍議の席の場で
地図を踏みつける十兵衛なんですが
これが第1話の十兵衛と
なんとなくダブるんです。

第1話の襲ってきた野盗を追い返したものの
何度戦えばここを守れるのか
と刀を振りながら自問自答するシーン。
第1話で何度戦えばここを守れる?と自問自答する明智十兵衛光秀
状況はちょっと違うんですが
いずれの十兵衛からも
戦うことの無常さを感じる一方で
それでも戦わねば悪は滅びない
戦い続けるしかないんだ
だがしかし・・・
というようなやるせない気持ちが
伝わってきます。
そして、この第1話の自問自答って
実は十兵衛の生涯のテーマなのかな
なんて思ったりもして。

といったところでそろそろ本題へ。

ちなみに第33話の公式サイトのトリセツ
こちらです。
今回のは織田包囲網の状況図みたいな感じですね。

→2021年3月31日をもって公式サイト・TwitterInstagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!

登場人物の年齢のおさらい

三好長慶と松永久秀を守る明智光秀、三淵藤英、細川藤孝

まずは主な登場人物たちの年齢確認を。
今回は元亀元年(1570年)秋スタート
というわけで年変わらずなので
年齢は全員据え置きです。
追加した人物は赤字にしています。
また前回の話の中で亡くなった
と判明した人物に関しては
こちらの一覧からは削除して
後述の亡くなった人を弔う章に
引き続き掲載する形にしています。

ちなみに生年不明な人とか
年齢設定不明な人以外の生年については
Wikipediaをベースにしています。
あと基本的に全員数え年の年齢です。

1.1.続・志賀の陣からの学び

信長公記」における志賀の陣
四面楚歌状態の織田信長勢
前回に引き続き比叡山に立て籠もり続けている
朝倉・浅井連合軍ですが
この頃の一連の戦を志賀の陣と言います。
前回の記事でも志賀の陣について触れてますが
今回は時系列で出来事を整理してみます。
tsukumogatari.hatenablog.com
もちろんベースは「信長公記」です。
信長公記」に記載の志賀の陣の節で
日付が明記されている出来事を
以下にピックアップしました。
発生年は全て元亀元年(1570年)です。

  1. 09月16日 越前の朝倉義景と北近江の浅井長政の軍勢3万が近江の坂本へ侵攻開始
  2. 09月19日 織田勢の森可成織田信治、青地茂綱らが宇佐山城を出て朝倉・浅井連合軍と応戦するも討死。
  3. 09月22日 摂津の国中島に在陣中の信長さまの下に朝倉・浅井連合軍侵攻の報が届く。
  4. 09月23日 朝倉・浅井連合軍の京への侵攻を食い止めるべく信長さまは野田・福島の陣を引き払って京へ帰還。この日の宿は本能寺。
  5. 09月24日 信長さまが本能寺を出発し坂本方面へ向かうと、信長勢の旗印を見た朝倉・浅井連合軍は比叡山へ逃げ込む。信長さまは下坂本に陣取る。
  6. 09月25日 信長さま、比叡山の周囲を厳重に包囲。
  7. 10月20日 信長さま、朝倉方へ使者として菅谷長頼を派遣。/li>
  8. 11月16日 信長さま、丹羽長秀に命じて鉄製の鋼を作らせ瀬田に舟橋をかけさせる。

  9. 11月21日 小木江城の城主であった信長さまの弟・織田信興が伊勢長島の一向一揆衆に襲われて自害

  10. 11月22日 信長さま、六角義賢と和睦を結ぶ。六角氏に味方をしていた三雲・三上勢が信長さまの陣に出頭。

  11. 11月25日 近江堅田衆の猪飼昇貞*1、馬場孫次郎、居初又二郎らが織田勢の味方につく。

  12. 11月25日夜 織田勢が堅田へ増援を送ったのを見て朝倉勢が阻止すべく攻撃。朝倉方の前波景定らを討ち取るも、織田方も坂井政尚らを失う。

  13. 11月29日 将軍・足利義昭三井寺に出向き和睦を勧める。

  14. 12月13日 織田勢と朝倉勢との和睦成立

  15. 12月14日 信長さま、和睦の条件通り勢田の山尾景隆の城まで撤退。

  16. 12月15日 朝倉・浅井連合軍、早朝から比叡山を下って退去。

この文字だらけじゃよくわからないと思うので
志賀の陣の状況図っぽいのを作りました。
志賀の陣の状況図
ちなみに位置はだいたいこれぐらい
ていう感じで正確さには欠けるので
その辺はご了承ください。

以下の項では前述の出来事一覧と図の補足を
少ししていきたいと思います。
宇佐山城の戦いについては
前回記事を参照ということで今回は省きます。

比叡山に逃げ込んだ朝倉義景
美濃を追われて越前に転がり込んできた十兵衛の昔語りを始める朝倉義景
麒麟がくる」だと比叡山に逃げたとはいえ
朝倉義景は信長さまとまだまだ戦う気満々
といったようにも見受けられました。
ただ、宇佐山での戦い辺りのことが
あまり触れられなかったこともあって
なんで比叡山にいる?って感じでしたw

信長公記」だと宇佐山城を攻めきれなかった
朝倉・浅井連合軍は諦めて京へ進路を変えたのに
信長さまの旗印を見たら
『敗軍のていたらくで比叡山に逃げた』
みたいな表現で書かれています。
酷い書かれようです(笑)
朝倉・浅井連合軍は3万ほどの兵数だったのに
信長さまの旗印を見ただけで逃げたというのは
宇佐山での戦いで兵が疲弊していた
というのもあるんでしょうけれども
信長さまの畿内での動員兵力が
それ以上だったのでしょう。
※この戦で織田勢がどれぐらいの兵力だったかは不明?

それに比叡山へ逃げたのはズルい(笑)
比叡山は僧兵4千人とも言われる武力もあったし
そもそも仏教の中心地として崇拝されてたわけで
兵士たちもあまり気が進まなかったでしょう。
佐久間信盛は気が進まなそうなセリフを
言ってましたしね。
ま、戦で戦って勝つよりも
政治的な力で勝利をするのが
朝倉義景の目論見だったということですね。
公方様を上洛させて畿内での勢力を
既に持っていた信長さまと真っ向勝負は
流石に分が悪いと考えたのかもしれません。

比叡山を取り囲んだ信長さま
志賀の陣の状況図
9月25日に信長さまは比叡山の麓を多くの部隊で
取り囲んでいます。
そこには十兵衛の名前も挙がっているし
麒麟がくる」で登場済みの
佐久間信盛柴田勝家佐々成政村井貞勝
多分誰もが忘れてそうな中条家忠も(笑)
配備されています。
それと「麒麟がくる」では信長さまが
近江の東を藤吉郎と徳川家康で守ってる
と言ってましたが
その藤吉郎、日付はわからないんですが
守備兵を十分に残した上で丹羽長秀と共に
勢田まで援軍として駆け付けています。

勢田へ来る途中では観音寺山と箕作山に
陣取っていた石山本願寺一向一揆衆に
進路妨害にもあったようですが
難なく切り抜けたようです。

十兵衛は前述の志賀の陣の図の通り
穴太に築いた要害に配備されたようです。
ここには「麒麟がくる」で登場済みの
簗田政綱、佐々成政村井貞勝佐久間信盛など
16人以上の武将を配備するという手厚さ。
他には場所がよくわからなかったんですが
田中の砦に柴田勝家
稲葉良通ら西美濃三人衆を配置しています。

朝倉・浅井勢が出てくることはなかったので
一戦交えることはなかったようですけど
比叡山の地理に長けている者が
夜ごと山へ忍び入って谷や寺に放火する
といった事は行われたようです。

朝倉方への使者は十兵衛・・・じゃなかった?
朝倉義景の話にじっと耳を傾ける明智十兵衛光秀
麒麟がくる」は十兵衛の物語なので
十兵衛がなんでも美味し所を持っていくのは
仕方のないところ(笑)
ただ実際に朝倉方に使者として出向いた
と書かれているのは十兵衛ではなくて
菅屋長頼という信長さまの側近です。
十兵衛に役目を奪われたこともあってか
登場していませんけど、信長さまに仕えた
政務の面で重用された武将の一人です。
本能寺の変当日は信長さまと共に上洛していた
といえば結末は想像がつくかもしれませんね。

さて、菅屋長頼は十兵衛同様に
和睦の交渉にいったのかといえば
そうではなかったりします。
信長さまはとにかく朝倉勢と
一戦交えたくて仕方なかったので
とりあえず日時決めて戦って決着つけよーぜ!
ていうのを菅屋長頼を通じて伝えます。
和睦なんて1ミリも考えていなかったようです。
信長公記」の信長さまは、ですけどね。

これを受けて朝倉義景はどうしたかといえば
なかなか返答しないでいましたが
最終的には戦う選択はせずに
和睦を申し出ています。

しかし、前述のとおり
戦いたくて仕方なかった信長さまは
和睦の申し出を聞き入れなかったそうです。

六角義賢・義治親子も反織田勢として立つ
志賀の陣の状況図
かつて信長さまの上洛戦の際に
居城であった観音寺城を奪われた
六角義賢・義治親子はこの志賀の陣で兵を挙げ
信長さまに対抗しています。
近江の菩提寺の城まで進出してきたそうですが
兵力がたいして集まらず
戦いを仕掛けるにも至らなかったようなことが
信長公記」には書かれています。
とはいえ藤吉郎らが勢田まで援軍に来る途中で
六角方の兵と何度も遣り合ってはいたようなので
局地的なゲリラ戦は続いていたのでしょう。

しかし11月22日に六角義賢・義治親子は
朝倉勢よりも先に信長さまと和睦をしています。

信長さまの弟・織田信興自刃
援軍の期待も出来ず孤立無援となった織田信興は自害した
尾張の小木江村に城を構えていたのは
信長さまの弟・織田信興
織田信秀の七男と伝わっています。
早いうちから信長さまに従っていて
小木江の西にある伊勢長島の一向衆や
尾張土豪・服部党に備えて
睨みを利かせるのが役目でした。

ところが志賀の陣で石山本願寺勢も
反信長勢に加わると伊勢長島の一向衆も蜂起し
織田信興の小木江城を包囲します。
近隣には織田家臣の滝川一益が守る
桑名城
がありましたが
ここも一揆勢に侵攻されていて
援軍を出すどころではなく
信長さまも比叡山包囲中で動くことができず
一揆勢が城内へ侵入したところで
織田信興天守に上って切腹したそうです。
兄・信長さまからの信頼は厚く
信興の死は伊勢長島一向一揆大虐殺の
原因とも言われています。

堅田水軍の猪飼昇貞らが味方に
志賀の陣の状況図
猪飼昇貞についてはこちらの記事でも
過去に書いているんですが
tsukumogatari.hatenablog.com
琵琶湖の湖上水運を牛耳っていた
堅田水軍の棟梁です。
当時の堅田は琵琶湖の湖上水運の要衝地であり
水運業で非常に繁栄していた町でした。
宣教師のルイス・フロイスもこの堅田の町を
富裕な町として紹介しています。

その堅田の棟梁である猪飼昇貞は
浅井氏から信長さまに寝返ったわけですが
後に、十兵衛の家臣となります。
十兵衛が志賀郡を与えられた事を契機に
十兵衛の配下に加わったようですね。

さてその堅田衆が寝返った夜のうちに
信長さまは堅田に守備兵として
坂井政尚らを派遣します。
要するに堅田の守りを堅くすることによって
物流の差し押さえをしたかったわけです。
しかしそれを察知した朝倉勢が
堅田に攻撃を仕掛けてきます。(堅田の戦い)
この戦では朝倉方の前波景定や
朝倉義景の祐筆・中村木工丞*2らを討ち取りますが
織田方も坂井政尚が戦死して壊滅状態となり
参戦していた猪飼昇貞も
琵琶湖を船で渡って逃げています。

和睦を嘆願された公方さま
織田信長と朝倉義景が一向に戦をやめないことにご立腹な足利義昭
公方さま、つまり将軍・足利義昭
織田と朝倉の和睦を取りなすために
11月29日に三井寺まで出向いています。
麒麟がくる」だとちょっと状況違いましたが
あくまでも信長公記」に書かれている内容
ということでお願いしますw

ただこの和睦については
朝倉義景が公方さまに泣きついて嘆願した
と「信長公記」には書かれています。
筆者の太田牛一さん、それ見たの?(笑)
まぁ誰かからそう聞いたのかもだけど
話を盛ってる気がしないでもないところ。
しかし、実際冬がきて交通の便が悪くなると
越前には簡単に帰れなくもなるし
越前との輸送も生き届かなくなるだろうから
泣きついたかどうかは別として
流石に困っていたのかもしれません。
麒麟がくる」でも十兵衛が
越前の冬の厳しさを指摘していましたしね。

そして公方さまがしきりに和睦を勧めてくるから
仕方なく織田方はそれに従った
というのが「信長公記」のスタンス
のようです。
ただ公方さまが三井寺にきてから
和睦が成立するまで2週間程経過していますがw

和睦の際には朝倉方からは

  1. 織田勢は琵琶湖を渡って勢田まで撤退すること
  2. 朝倉・浅井方が高島へ撤退するまで信長方から人質を出すこと
といった条件をのまない限りは撤退しない
と言ってきたそうです。
意外にも?信長さまはこの条件通りに
動いたようだし、そもそも泣きついたわりには
朝倉側の条件もわりと強気な気がします。

信長公記」では信長さまを持ち上げる方向で
記述されてる気がするんですけど
やっぱり信長さまも一度講和して
この戦を止めたかったのでは。
信長公記」には正親町天皇の勅命については
一切触れられていないんですが
実際には「麒麟がくる」で描かれていたように
正親町天皇の勅命によって
講和が成り立ったみたいなんですよね。

この時の信長さまの敵をおさらいしてみると
越前の朝倉、北近江の浅井、南近江の六角、
そして比叡山延暦寺石山本願寺
さらには三好三人衆とその援軍であり
三好の本拠地・阿波を仕切る篠原長房。
第一次信長包囲網と言われるだけあって
辺り一面敵だらけなんですよね。
仕切り直すという意味でも
和睦は信長さまには必要だったのではないか
という気がしています。

まぁでもすぐに第二次包囲網が
武田信玄と共にやってくるんですけどね。

あ、ちなみに信長さまは12月17日に
岐阜へ帰ったうです。
帰蝶さまに笑われずに済んだことでしょう(笑)

1.2.比叡山からの学び

比叡山延暦寺とは
比叡山・延暦寺
比叡山について語れるほど
詳しいわけではないんですが
当時の比叡山というのが
どういう位置づけにあった存在なのか
これは知っておかないと
理解できない部分があると思います。
ちなみに念のため言っておくと
ここで言ってる比叡山とは
天台宗本山寺院である延暦寺のことを
指しています。

さてその比叡山延暦寺を創建したのは最澄
中国での修行から帰国した後に
延歴7年(788年)に一乗止観院という
草庵を建てたのが始まりと言われています。
まだこの当時は延暦寺、とは呼ばれておらず
その寺号が許可されたのは最澄没後のことで
弘仁14年(823年)だそうです。
そんな比叡山天台宗の総本山であり
天台宗の僧侶を輩出するための
大学機関のようなもの。
そしてこの比叡山が輩出した名僧は数多く
浄土宗の開祖・法然
臨済宗の開祖・栄西
曹洞宗の開祖・道元
浄土真宗の開祖・親鸞
日蓮宗の開祖・日蓮

等々、良く知られた名前のお坊さんばかり。
比叡山は間違いなく当時の仏教界を
牽引していた存在でしょう。

比叡山の僧は思い通りにならない
平安時代末期に強大な権力をもって
院政をおこなった白河法皇
世の中で思い通りにならないものとして
氾濫の絶えない賀茂川の水、双六の賽の目
そして山法師を挙げています。
この山法師とは比叡山の僧侶のこと。
当時政治の中枢トップにいた人間ですら
意のままに動かせないといわしめた比叡山の僧。
どうしてなのか。

それは十兵衛も前回32話で言っていました。
つまるところ『金』なのです。
比叡山はいつの間にか当時の日本で
トップクラスの財力を誇る寺社として
成り上がっていました。

おまけに延暦寺では僧が武装化し始めて
軍事力も持ち合わせるようになります。
そもそも御仏という謎の力もあるのに(笑)
経済力と軍事力も手に入れてしまっては
時の権力者といえども思い通りにはできない
というわけです。

でも何故そんなに力を持つようになったのか。
それは比叡山を含めた寺社には
高貴な人たちが数多く存在したからです。
足利義昭が以前将軍になる前に
『跡目争いを避けるために嫡男以外は
皆寺に預けられるのが慣習』

というようなことを言っていましたよね。
何もこれは将軍家も限った話ではなく
それなりの家格のいえであれば
次男坊たちを出家させる手段を
とっていたわけです。

その結果、比叡山にも多くの貴人たちが集まり
その家筋から寄付など支援してもらったり
土地をもらったりしているうちに
その財力が蓄えられていったというのが一つ。
というか比叡山の所有する荘園(領地)の数は
現在わかっているだけでも280を超えるし
近江では4割、若狭では3割の荘園が
比叡山のものだったと推測されているそうです。
そもそも比叡山以外にも興福寺東大寺など
力のある寺社勢力はどこも多くの荘園を
有していたようですしね。

高貴な人たちからの寄進があり領地も存在し
これだけでもお金は沢山入ってきそうですが
これだけじゃありません。
いわゆる高利貸しもおこなっていたそうです。
前述したように荘園を多くもっていても
そこでとれるすべての米を寺社だけでは
消費しきれない、という場合どうしますか?
ていう話です。

お坊さんならタダで配ると思うでしょ?
違うんですよねw

高い利息付で貸し出していたんです。
これを「出挙(すいこ)」と言うんですが
元々この出挙は貧しい農民のために
国が種籾を貸し出して
秋に利息付きで変換させた貧民対策の制度
ただこれも次第に利息収入に重きが置かれて
国の重要財源になると同時に
私的に高利で出挙を行う者も出てきて
こっちは「私出挙(しすいこ)」
呼ばれるようになります。
この私出挙に勤しんでいたのが寺社勢力、
つまり比叡山だったりするわけです。

延滞した場合は厳しく取り立てたそうなので
きっと薙刀を担いだ僧兵が
脅しにやってきたんじゃないかとw

ちなみに最初は稲を貸していたものが
貨幣の流通によって次第に金貸し業に
変わっていったようです。

寺社が牛耳っていたのは経済

土地があってあまっている米やお金を
貸出ていればもう充分ですよね。
そもそも寄進してって頼んだら
仏様のためならって寄付もしてもらえるし
なんてぼろい商売なんだろう
て思ったりするわけですが(笑)、
まだこれだけじゃないんですよね。

当時の寺社はもはや経済全体を
掌の上で転がしていたようなものでした。
今でこそお店がずらっと並んでたり
いつきても同じ場所に同じ店があるけど
戦国時代とかそれより前の時代は違いました。
定期的に開かれる「市」でお店を出して
その時だけ物を売り買いするっていうのが常。
毎日同じ場所に同じ店が開いていた
というわけじゃないんですよね。
そして、この市を仕切っていたのが
やっぱり寺社勢力なんですよ。
仕切るっていうことはつまり
市にお店を出す許可を出す事と
出店代の徴収をしてた
わけです。

しかもそれだけじゃないんです。
流通する商品自体も思いのままに(笑)

幕府や朝廷から独占販売権をもらったりして
とりわけ重要な商品は全て寺社勢力が
牛耳っていたそうです。
当時の重要な商品っていうと
絹、お酒、麹、油
比叡山はお酒のシェアが高かったようです。
当然こういった商品を扱う業者は
寺社勢力とも繋がりが深かったろうし
儲かる人しか儲からないような仕組みが
出来上がってたんじゃないですかね。

比叡山焼き討ちは信長さまが最初じゃない
近江の比叡山麓に再び兵を集結させた織田信長
ここまでで比叡山が魔物の巣窟であることが
だいぶわかってきたのではないかと(笑)
信長さまが延暦寺を焼き討ちしたのも
単純な宗教弾圧てことでもないわけです。

それに、比叡山と対立したのは
信長さまが最初ではありません。

信長さまより先に比叡山と対立したのは
室町幕府第6代将軍の足利義教です。
足利義教の父は3代将軍の足利義満
義教は足利義満の嫡男ではありませんでした。
そのため義教は出家して義円と名乗り
実は第153代天台座主にも就任しています。

義教は兄・義持とその子・義量が亡くなり
後継指名もなかった事から
将軍後継候補の中から籤引きで
将軍になることが決まったそうです。

足利義昭同様に一度出家をしてから
将軍となった足利義教なんですが
将軍就任のために還俗してすぐに
弟の義承を天台座主に命じています。
つまりこの時点ですでに比叡山の取り込みを
考えていたのでしょう。
しかし比叡山側は神罰や武力を振りかざして
政権に圧力ををかける「強訴(ごうそ)」を
頻繁に使用してきました。
このような強硬手段を取る比叡山側に対して
腹を立てた足利義教は琵琶湖と西近江の道を
封鎖した上で比叡山の麓、坂本の町を
焼き払った
と言います。

最終的に足利義教比叡山の制圧に成功し
一時的には比叡山の力も弱まるんですが
足利義教が暗殺された後は
再び武装化を強めて独立国家の様相を呈しつつ
戦国時代を迎えたのです。

ちなみに戦国時代に入ってからも
管領細川政元比叡山を焼き討ちしています。
この時は比叡山細川政元と対立をしていた
前将軍の足利義稙に味方したため
その報復として焼き討ちがおこなわたそうです。

信長さまの焼き討ちばっかり有名だけど
お金と武力を持ち、神罰を振りかざしながら
権力に対抗する比叡山の僧兵を
厄介に思っていたのは
信長さまだけじゃなかったということです。

1.3.信長さまの比叡山焼き討ちからの学び

比叡山焼き討ちまでにあった出来事
比叡山討伐の軍議を始める織田信長一同
麒麟がくる」の今までのパターンでいくと
物語終盤で大きな事件がいきなり起きても
次の回で多少なりとも補足的な話を
織り交ぜてくる傾向がある気がしています。
とはいえ全く触れてもらえない出来事も
あるのでその辺の補足をしておきます。

そもそも比叡山の焼き討ちが行われたのは
元亀2年(1571年)の9月12日です。
志賀の陣が始まったのが元亀元年の9月頃なので
そこから約1年後ということになります。
志賀の陣は3か月ほど経過してから和睦して
信長さまも12月には岐阜へ戻っています。
そこから比叡山の焼き討ちまでの間にも
反織田勢との戦いは行われていました。

というわけで例によって以下に
箇条書きで比叡山焼き討ちまでに起きた
一連の出来事を書き出してみました。

  1. 02月24日 浅井方の磯野員昌が降伏佐和山城を開城。城代に丹羽長秀を入場させる。
  2. 05月06日 箕浦の合戦浅井長政との戦い。藤吉郎の活躍もあって撃退。
  3. 05月12日 信長さま、5万の兵を率いて伊勢長島へ出陣
  4. 05月16日 大田口で村々に火を放った後、一端退去しようとした所を一揆勢に狙われる。殿を務めた氏家卜全が討死
  5. 08月18日 信長さま、北近江へ出陣。横山にて陣を取る。
  6. 08月26日 夜になって小谷と山本山の間にある中島村に陣をとり、与語・木本周辺*3に焼き討ちをかける。
  7. 08月27日 横山城へ撤収。
  8. 08月28日 信長さまは佐和山城へ入場。先陣は一揆勢と交戦。
  9. 09月01日 志村城佐久間信盛らに攻めさせる。城内に突入して670人を討ち取る。隣の小川城主・小川祐忠が降伏
  10. 09月06日 常楽寺へ移動し、一揆勢の立て籠もる金ガ森の城を攻める。
  11. 09月11日 信長さま、山岡景猶の城に陣を据える。
  12. 09月12日 織田軍、比叡山を攻撃開始

こちらも以下で少し補足していきます。

猛将・磯野員昌が織田方に寝返る
浅井四翼と謳われ姉川の戦いでも比類なき
戦いぶりを見せたと伝わる磯野員昌でしたが
佐和山城は孤立した状態にあったため
止む無く織田方に降伏しています。
tsukumogatari.hatenablog.com
佐和山城を明け渡した後、
磯野員昌は高島郡逃げ舞うが後にその地を
信長さまより与えられます。
ただし信長さまの甥である津田信澄*4
その養嗣子としたこと、
もしくは信長さまに叱責された事が原因で
織田家を出奔してしまいます。
その後行方がわからずでしたが本能寺の変
信長さまや津田信澄が斃れた後、
高島郡に戻って帰農したそうです。
麒麟がくる」には
登場し無さそうな気配かなぁ。

第一次伊勢長島侵攻開始
前年、信長さまの弟・信興を自害させた
伊勢長島の一向一揆衆。
信長さまの怒りは相当なものだったとか。
北近江は佐和山城を接収した上、
浅井方の一揆勢を藤吉郎が寡兵で破ったことで
近江での戦況が優位に立ったことから
信長さまは伊勢長島への出陣を決めます。

ところがこの戦いではまたしても手痛い目に。
5万の兵を率いて出陣した信長さまは
兵を3手に分けて長島へ攻め寄せますが
周辺の村々に放火して撤収しようとした所を
撤退道中の狭い箇所で弓兵・鉄砲隊に
待ち伏せされてしまいます。

信長さま本隊と佐久間信盛の隊は
すぐに兵を退くことができたんですが
殿を務めた柴田勝家が負傷していまいます。
そこで殿を代わった氏家卜全を始め
多くの家臣が討死
してしまうのです。
tsukumogatari.hatenablog.com

そして伊勢長島一向一揆衆との戦いは
鎮圧するまでに後2回行われることになります。

浅井方の小川祐忠、織田方に降る
小川城主の小川祐忠は籠城していましたが
織田勢の志村城攻めを目の当たりにして
人質7人を差し出して降伏します。
tsukumogatari.hatenablog.com
小川祐忠は所領を安堵されて
以後は、近江衆の一人として信長さまに仕えて
安土城築城時には瓦奉行を任されていますし
信長さまから茶会も免許されていたようです。
しかし本能寺の変後は十兵衛に従って
山崎の戦いにも出陣
しています。
麒麟がくる」でも山崎の戦い辺りには
流石に登場機会があるかも?

比叡山の焼き討ち
始まってしまった延暦寺の焼き討ち
比叡山を信長さまが攻撃開始したのが9月12日。
天台座主の覚恕さまは在京中だったため
焼き討ちの難は逃れています。

この焼き討ちによって根本中堂以下全山が
攻撃されたため、延暦寺日吉大社は消滅。
寺領、社領は信長さまに没収されることとなり
十兵衛や佐久間信盛柴田勝家丹羽長秀らに
配分されることになります。
そういえば「麒麟がくる」は丹羽長秀
1ミリも出てきませんね(笑)

そしてこの比叡山焼き討ち後に
十兵衛は近江の滋賀郡を与えられて
坂本の地に坂本城を築きます。
坂本城は現存していないんですが
琵琶湖に面して作られた水城で
城内外を琵琶湖を介して船で
行き来ができたと言われています。
安土城へも船で行けたらしいんですけど
ちょっとベネチアみたいな感じ?(笑)

当時の最新の築城技術を駆使して
築かれた坂本城
宣教師のルイス・フロイス曰く
安土城に並ぶほどの名城というぐらい
壮大で華麗なお城だったそうです。
石垣以外現存していないのが残念。

1.4.没した登場人物たち

斎藤道三の亡骸に膝をついて深く礼をする明智十兵衛光秀

こちらは麒麟がくる」で亡くなった人たちを
弔うための章
です。
亡くなった日については
Wikipediaの情報と「麒麟がくる」での情報を
照らし合わせてのものですが
人物によって諸説ありますので
あくまでも参考情報ということでお願いします。

1.5.参考資料

今回記事を書くにあたって主に参考とした書籍や
サイトをこちらでまとめて紹介しておきます。
興味持たれた方はご購入または閲覧してみてくださいね。

戦国 戦(いくさ)の作法

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  • 発売日: 2018/06/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
戦国の忍び (角川新書)

戦国の忍び (角川新書)

志賀の陣 - Wikipedia
白地図専門店 | 日本最大級の白地図サイト
織田信興 - Wikipedia
延暦寺 - Wikipedia
足利義教 - Wikipedia
細川政元 - Wikipedia

2.あとがき

麒麟で学ぶ」第33回目はいかがでしたか?
感想、ご意見等あればコメントをお気軽に。

今回は比叡山についていろいろ書きましたが
実は「麒麟がくる」の中でも
正親町天皇朝倉義景
しれっと説明してくれてたりしますね。

説明してくれてるといえば
怒りを爆発させながらも松永久秀
しっかりと筒井順慶の説明をしてくれてるのが
ちょっと面白いなぁと思いながら
見ていましたw
筒井順慶松永久秀の関係については
前回までの記事でも書いているので
今回は端折りましたが
大和の国の支配勢力は
比叡山同様に寺社勢力が強かったんですよね。
何気ないセリフの中にその辺の情報も
きちんと織り交ぜながら大河ドラマって
作るんだな~なんて思ったり。

さて比叡山の焼き討ちを経て
ようやく織田家臣になりそうな十兵衛。
ただ次回予告を見た限りでは
比叡山焼き討ちのやり方自体には
納得がいっていないようで。
それは今まで「麒麟がくる」を見ていたら
余裕で予測できたことなんですがw
十兵衛もいざ比叡山討伐へ・・・
近年は比叡山の焼き討ちに
十兵衛も積極的だったと言われてるだけに
麒麟がくる」では
十兵衛がどういった心情で
比叡山焼き討ちをおこなうのか
本能寺の変に繋がる要因となるのか
というのが気になる所ですよね。
その辺はまた次回を見てのお楽しみ
てなところかもしれません。

さて冒頭でも述べましたが
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオであれば
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
当日の放送や再放送も見逃してしまったとしても、いつでも視聴可能です。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。

そして「麒麟がくる」をもっと楽しむために
こちらの書籍もおススメですので
ご興味のある方は是非とも。

NHK出版 2019年11月30日


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では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!


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このINDEXページを基点として頂くと
過去に投稿済みの記事へも
アクセスしやすいです。
こちらから過去記事も読んで頂けると
嬉しいです。

*1:信長公記」では猪飼野正勝とある。

*2:なかむらもくめのじょう

*3:現在の伊香郡余呉町木之本町あたり。

*4:信長さまを2度裏切ろうとした弟・織田信勝の嫡男。

*5:麒麟がくる」では今の所亡くなったことは語られていない。

*6:麒麟がくる」の場合は長良川の戦いから数日後な気がするけどWikipediaベースで載せてます。

*7:信長の野望ベースなら享年23歳。

*8:麒麟がくる」では亡くなっているかどうかの言及はなく、東庵先生も生死どちらとも取れる感じで話している。

*9:信長の野望ベースなら享年42歳。桶狭間の戦いの前哨戦、丸根砦の戦いで討死しているが「麒麟がくる」では語られていない。

*10:実際に亡くなったのは21話と22話の間の期間だが、19話で既にナレ死してます。。。

*11:信長の野望ベースなら享年30歳。桶狭間の戦いの後、今川家からの自立を目指した松平氏との戦いにて戦死。

*12:麒麟がくる」では桶狭間の戦いから4年間がカットされてしまったこともあって、その死を語られることもなかった。

*13:没した月日は9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日など諸説ある。

*14:1540年生年説もあるのでその場合だと享年29歳。