歴史人物語り#20 明智光秀に加担したのに伊予の大名にまで登りつめ、だけど最終的には転落してしまった小川祐忠

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今回は山崎の戦いでは明智光秀の味方となったにも関わらず
後々には伊予7万石の大名にまで出世した
小川祐忠(おがわすけただ)です。
麒麟がくる」ではとあるシーンで名前がテロップで出るぐらいかも?

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

 

 

1.小川祐忠(おがわすけただ)とは

通称佐平次または孫一郎
父は小川壱岐
小川氏は近江や伊賀を支配していた六角氏の家臣
応仁の乱の後に六角氏が築いた佐和山城を任されていました。
しかし、北近江の浅井氏が次第に勢力を増して戦国大名し、
佐和山城にも手が伸びてくると、城主小川伯耆守定武
浅井家家臣の磯野員吉に城を明け渡し、そのまま浅井家に臣従しました。
小川祐忠の代においても浅井家の家臣だったようで
祐忠は神崎郡にある小川城を任されていました。

浅井長政が義理の兄である織田信長を裏切って、
信長包囲網に参加する形となると
祐忠も当然長政に従って、信長と敵対することになります。

姉川の戦いで勝利をおさめ、
その勢いで北近江へ侵攻してくる信長は
次第に浅井家主力の家臣を引きこみつつ、
浅井長政の居城・小谷城への攻略への道を着々と開いていきます。
祐忠は小川城で立て籠もっていましたが
佐和山城を守る浅井四翼の磯野員昌の投降を契機に
状況がどんどん不利になっていく様を見ていて諦めがついたのでしょう。
信長に人質7人を差し出して降伏するのです。
祐忠は信長の重臣である柴田勝家に伴われて佐和山城織田信長に拝謁し、
赦免されると共に所領も安堵されました。

以後は、織田信長の家臣として
1573年には足利義昭が籠城している槙島城の攻城戦に参戦し
1579年には安土城の築城において瓦奉行に命じられたりしています。

しかし本能寺の変織田信長が亡くなると
明智光秀に加担して山崎の戦いに参戦するのです。
個人的には、単純に近江を明智光秀が抑えたが故に
従わざるを得なかっただけなのではと思っています。
基本的には長いものに巻かれて従っていくタイプなお家柄だと思うので。
家を潰さないためにはそういう判断も必要かなとは思います。

山崎の戦いは、皆さんご存知の通り明智光秀が敗れます。
祐忠は降伏し、その後北近江が柴田勝家の領土なったので
今度は柴田勝家の配下となり、
勝家の養子である柴田勝豊(しばたかつとよ)
家老として仕えることになります。

ところが、この柴田勝豊は
あんまり養父の勝家とは仲がよろしくなかったようで
秀吉と勝家が対立するようになると、
大谷吉継の調略もあって羽柴秀吉側に寝返ってしまうのです。
今度は意図せず羽柴秀吉側となり、主家だったはずの柴田家と戦うことになりました。
ちなみに柴田勝豊は羽柴秀吉柴田勝家の決戦である
賤ケ岳の戦いの直前で亡くなっていたので
祐忠は秀吉の直臣として戦に参加したそうです。

以後は、1584年の小牧・長久手の戦い(秀吉vs織田信雄・家康連合軍)
1590年の小田原征伐にも参陣して武功を立て、従五位下土佐守に叙任されました。
1592年の朝鮮に出兵した文禄の役では伊達政宗と共に
浅野長政を救援する功を立てるなど
秀吉の家臣として着実に存在感を示していました。
そして、1595年に福島正則尾張清洲城転封に伴って
伊予今治7万石の大名となるのです。
地味な働きながらも着実に仕事をこなしていった結果なのでしょう。

祐忠は茶人としても有名だったこともあって、
秀吉が1598年に開いた醍醐の花見では三番茶屋を立て、
茶室内には当時一流の絵師である狩野山楽(かのうさんらく)
長谷川宗仁(はせがわそうにん)に襖絵を描かせたそうです。
この年の8月に秀吉はなくなりますが、遺物として三原の刀を賜ったとか。
またこの年には隠居して息子の祐滋(すけしげ)家督を譲っていたそうで
息子の祐滋も秀吉の遺物として左文字の刀を賜っています。

そして1600年関ヶ原の戦い
秀吉には大名にしてもらった大恩がありますから
息子の祐滋と共に当然西軍として参戦します。
大恩がありますからね!
ところが既に藤堂高虎の調略によって東軍に内通していたのです。
ただし、事前に内通する知らせはしていなかったみたいで
これが後々の命取りになるのですが・・・。
有名な西軍の小早川秀秋の寝返りを契機に、親子ともども東軍へ寝返ります。
大谷吉継に属して奮戦していた薙刀のの名手・平塚為広(ひらつかためひろ)
祐忠の家臣が討ち取るなど、大谷吉継隊を壊滅に追い込むほどの戦いぶりをみせました。

ところが、関ヶ原の戦いの後の論功行賞において小川家は改易されてしまいます。
改易の理由については、以下に示すように諸説あります。

  • 事前に内通することを明らかにしていなかったから
  • 祐忠本人の資質の欠如領内の悪政の評判から
  • 祐忠は息子の祐滋共々石田三成と昵懇だったことを家康が嫌ったから

祐忠の正室と兄弟の一柳直盛(東軍として戦功をあげ加増されている)の嘆願がなければ
死罪となっていた可能性もあったことを考えると
3番目の説が一番有力だったり!?
なんてことも思いますが、
結果的には何度も主君を裏切る行動をとってきたことが
一番信用ならなかったことなのかもしれませんね。
この辺は評価が分かれるところな気がします。

改易後は京都にて隠棲し、最終的には近江高島郡で1601年に没したとか。
享年52歳と伝わっています。

2.小川祐忠の子孫たち

祐忠・祐滋は改易されましたが、
祐忠のもう一人の子である光氏(みつうじ)
親族の一柳直盛のおかげで罪を免れ、小川家を継ぎ豊後日田藩主となります。
しかし子に恵まれなかったため、
光氏が1610年8月に亡くなると無嗣断絶となってしまいました。

また、両替商の萬屋平右衛門小川祐忠の子であることを自称していたようです。
一説では、子の祐滋が改易された後に萬屋平右衛門と改名して
商人として大成功を収めたとかなんとか。
でも、祐滋と萬屋平右衛門が同一人物であるという根拠になるものは
何もないようなので、真偽のほどはわかりませんね。

それから江戸時代、徳川吉宗が江戸に設置した無料の医療施設である
小石川養成所開祖・小川笙船(おがわしょうせん)
小川祐忠の子孫らしいです。

3.「麒麟がくる」での小川祐忠、そもそも出番ある??

山崎の戦いで、
最初に陣取ってるシーンとかで
ちょこっと名前が出て終わり、
というのが一番無難な気がします。
決して小川祐忠を馬鹿にしているわけではありませんので(笑)
山崎の戦いの中で目立った戦績が残っていれば違うんでしょうけどね。
元々光秀の家臣だったわけでもないし、
おそらくたまたま光秀についただけだと思うので(ここは勝手な妄想w)
出番がないのは仕方ないかなと。
明智勢に積極的に助力することを宣言するようなシーンがあったらあったで
面白いかなぁとは思っています。
脚本家さんはどのように扱うか、もしくは扱わないか(笑)、
楽しみにしておきます。

4.まとめ

今回は山崎の戦いで光秀に加担したけど
伊予の大名にまで成り上がり
でもその後は転落人生が待っていた小川祐忠でした。
過去の人は自分の不利になるような資料しか残っていないと
何ももう反論はできないだけに、ちょっと可哀そうだなと思うことがあります。
最初の方でもちょっと言いましたけど、
自分の家族や家臣、領民を守るためには
敢えて泥水をすするような、他人に避難されるような選択を
迫られることが家長にはあると思うんですよね。
戦後時代みたいに命を取る取られるっていうのが普通な時代だと特に。
だから小川祐忠が、結果的に主君を何度も変えていることを
安易に批判したくはないんですよね。
本当のところは本人のみぞ知る。

では最後に恒例の信長の野望・創造 戦国立志伝での
小川祐忠評価値を。

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知略だけちょっと高くて他が・・・(笑)
有能な家臣を見つけて支えてもらいながら
戦国の世を生きていかないといけない感じですが、
個人的には楽しめるプレイができそうな武将に仕上がっています(笑)
でもまだ祐忠で遊んだことは一度もありません!(笑)

では、今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!