「麒麟がくる」第36話は明智十兵衛光秀が公方さまに大いに泣かされた回

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「麒麟がくる」第36話は明智十兵衛光秀が公方さまに大いに泣かされた回
麒麟で学ぶ」第36回目です。
今回の記事を読むと以下の事がわかります。

  1. 漢詩の作者・高啓
  2. 迷う前に行動する事の大切さ
  3. 再建されない天守閣たち
  4. 月の船と柿本人麻呂
  5. 17カ条の異見書概略
  6. 比叡山焼討で焼かれなかったお寺

さて本シリーズの前提事項的なものを毎回0章に記載していますので、初めて本シリーズの記事を読む方はさらっと一読していただけると助かります。
既に読んだことのある方は読み飛ばして頂いてかまいません。

また前提の一番最初に記載していますが本シリーズは「麒麟がくる」のネタバレを含みます
当日の放送や再放送も見逃してまだ視聴されていない方はU-NEXTまたはAmazonプライムビデオNHKオンデマンドをチャンネル登録すると見逃し分を視聴できます。
こちらで視聴した上で本記事を読まれるといいかもしれません。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。

しかしネタバレ含んでいるけど、本記事を読んでから視聴すると少し前提知識が入った上での視聴になるのでそれはそれでいいのかもしれませんけどね。

そして「麒麟で学ぶ」の過去分についてはこちらからどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

では今回のお品書きはこちらになります。

ちなみに2019年12月15日から更新中の「麒麟がくる公式サイト

www.nhk.or.jp

公式Twitterもブックマーク、フォローしておくとより一層「麒麟がくる」を楽しめるので、まだの方は是非とも。
Instagramもあります。

0.本記事を読むにあたっての前提など

1.「麒麟がくる」第36話「訣別(けつべつ)」からの学び

坂本城の天守閣でデートをする明智十兵衛光秀と妻・煕子
第36話の感想はnoteの方に先出しで書いているのでそちらをご参照ください!

note.com

弱冠投稿当初より表現を変えたり、わかりずらい箇所を修正しています。
なので一度読んでる人、再読してもいいんだからね!(笑)

というわけで、さっさと本題の方へ。

ちなみに第36話の公式サイトのトリセツはこちらです。
www.nhk.or.jp
今回は公方さまを中心とした信長包囲網の説明ですね。

登場人物の年齢のおさらい

三好長慶と松永久秀を守る明智光秀、三淵藤英、細川藤孝

まずは主な登場人物たちの年齢確認を。
今回は元亀3年(1572年)冬スタート
というわけで年齢は全員1年繰り上げ。
追加した人物は赤字にしています。
また前回の話の中で亡くなったと判明した人物に関しては、こちらの一覧からは削除して後述の亡くなった人を弔う章に引き続き掲載する形にしています。

ちなみに生年不明な人や年齢設定不明な人以外の生年については、Wikipediaをベースにしています。
あと基本的に全員数え年の年齢です。

1.1.青い鳥からの学び

水を渡り 復た水を渡り
三条西実澄曰く、青い鳥の明智十兵衛光秀、御所にて
十兵衛が御所へいった際に帝がおわす辺りから聞こえてきた詩。

水を渡り 復た水を渡り
花を看 還た花を看る
春風 江上の路
覚えず君が 家に到る

この詩はなんだろう?と思って調べてみました。
するとこれは中国の高啓という人が「尋胡隠君」、即ち隠棲した友人・胡氏の元を尋ねた際に詠んだ詩。
意味は三条西実澄が言ってた通りで

何度も何度も川を渡る道すがら、花を見、さらに咲きほこるあたりの花を見る。
春風そよぐ江(かわ)のほとりの路をゆくと、いつの間にか君の家にたどり着いてしまった。
引用元:公益社団法人 関西吟詩文化協会サイト

というもの。
作者の高啓は1336年から1374年に生きた人。
時代的には元朝末期から明朝初期の時代。
明の時代を代表する詩人の一人だそうです。
ただし享年39歳で亡くなっています。
なぜなら明の皇帝を諷刺した詩を書いた等の理由で処刑されてしまったからです。
処刑の際には腰斬の刑に処されたそうなんですが・・・
腰斬っていうのはその名の通りで腰を切って胴体を真っ二つにする処刑方法。
胴体を切っても即死せず数十分後に出血多量やショック死で亡くなる
というなんとも酷い処刑の仕方。
ですが中国では罪人に執行される処刑方法として古来から行われてきたそうです。

今の日本では考えられない事ですよね。
首相の悪口言ってる人なんて五万といるけど処刑されることはありませんしね!
そういやつい最近私も悪口じゃないけどちょっと文句を言いかけたような・・・w

なれど迷わずに歩もうではないか
なれど迷わずに歩もうではないかと答える帝とその声を聞く明智十兵衛光秀
十兵衛が目指す道は戦の無い平穏なる世の中。
だけどそこへ至るまでの過程で迷いも生じると帝に吐露する十兵衛。
そしてそれは、帝も同じ思いだったようです。
それでも帝は
共に迷わず歩んでいこう
と十兵衛に言葉を投げかける。

日本で最も尊い人物からこんな言葉をかけられたら藤吉郎だってきっと感激するはず?(笑)
それはともかく
「なれど迷わずに歩もうではないか」
という帝の言葉でふと思い出したことがありました。
それは社会人1年目、配属された部署の上司に言われた
『悩んでる暇があったら行動して結果を出せ。』
という言葉。
私自身が頭でいろいろ考えを思い巡らせすぎて行動が遅いタイプの人間。
なので最初の頃はよく叱られていました(笑)
要はなるべく失敗をしたくない、完璧主義に近い人間だったんですよね。
そんな時に言われたのが前述の言葉であり
その時に補足的に言われたのが
『新人にそこまで悩ませるような仕事は頼んだりしないよ。
3秒以上考えるな。
やってみないとわからない事の方が多いんだからどんどん行動して失敗しろ。
そうやって数多く結果を残した方が良くも悪くも糧になりやすいし、1秒で判断できる思考回路がお前の頭の中に組みあがるんだよ。
ミスなんか気にするな。
もっと動け。』
とまぁ一字一句完璧に覚えてるわけじゃないけど、こんな感じのお説教をされたのをよく覚えています。
このお説教の中の『1秒で判断できる思考回路』っていう言葉が妙に好きだったりします。

なかなか性質は変えられないものですけど、頭の片隅にこのお説教が居座ってるおかげで『悩むより行動』っていうのが身に付くようになりました。
こういう書籍をもっと早く読んでたら新人の頃に怒られることはなかったかもしれない(笑)

足利義昭の変節
剣術の稽古に精を出し始めた足利義昭
剣術の稽古をし始めた公方さまこと足利義昭
剣の達人だった兄の足利義輝のようにとまではいかずとも、戦の際には周りから遅れを取らぬようにしたいという気持ちが湧いてきたらしい。
将軍としての立場を自覚したことの現れと三淵藤英は喜んでました。
でも、考えが暴力的になってる気がするし表情もちょっと怖い・・・
そこは本当にいいの?三淵さん。
とツッコミたくなりますw
変わってしまった将軍に涙する節子
将軍の息子として生まれたけど弟だったがために出家させられた足利義昭
お寺で育ったためか貧しい人々に目が自然と向く。
そして駒と共に飢えで苦しむ人やお金がなくて医者にかかれない人たちのための場を提供しようとしていました。

この当初の公方さまの目的を達成するためなら、17カ条の意見書を突き付けられたようとも信長さまの思うがままにやらせてあげた方が良かったんじゃないのかと思ったりします。
でも当初の目的を捨ててまで信長さま打倒に走ろうとする公方さまは、心底信長さまの事が嫌いなのでしょう。
大の上に大がつくぐらい嫌いなのかもしれない。

初めて会った時から性に合わなかった事を十兵衛に暴露しましたよね。
つまり公方さまにとって信長さまはおそらく生理的に合わないタイプ。
しかし将軍になるためには
上洛するためには
信長さまのご機嫌をとるしかなかった。
目に余る部分があったとしても
目を瞑って我慢するしかなかった。
その嫌なものを我慢し続けるストレスの積み重ねが、聖人のような眼差しをしていた公方さまを怒りに満ちた目に変えてしまった気がします。

自分の気持ちに反して嫌なことをし続けるとそのうち何かしらの反動があるもの。
心が病んで荒んでしまう前にストレスとなるものは断ち切りたい。
特に現代社会はストレス社会なんて言われていますし。
Twitterでも有名なTestosteroneさんの書籍なんかが、そういったストレスとのうまく付き合う方法を教えてくれますね。

1.2.坂本城デートからの学び

坂本城天守閣が完成
坂本城の天守閣でデートをする明智十兵衛光秀と妻・煕子
坂本城天守閣が完成したらしい。
十兵衛は煕子に真っ先に坂本城を見てもらいたいとデートに誘いました。
戦国時代にそんなイケメンいたんだろうかw

さて坂本城の高さがどれぐらいかわからないんですけど・・・
例えば安土城は高さが約32メートルあったと言われています。
今の高層ビルと比べちゃうと全然低いですが、戦国時代の頃の建物としては高層建築物だったでしょう。

安土城ほどではないにしても坂本城天守も負けず劣らずの高さはあったのではないかと思います。
宣教師ルイス・フロイスがその豪華絢爛さを安土城に引けを取らぬほどと褒めちぎってるぐらいですからね。
そんな坂本城天守最上階からは琵琶湖も見渡せるほどなので、当時としたら最高のデートスポットでしょう。
月が見える夜に煕子や娘たちと船で琵琶湖へ繰り出し
そして湖上で子どもたちに古い歌を教える
みたいな夢を煕子と語ってた十兵衛はだいぶロマンチストでしたw

ちなみに天守閣って江戸時代ぐらいになると住居というよりも倉庫としての役割の方が強くなります。
もちろん戦になって攻め込まれた際の最後の砦にはなるんですけど、常時そこに城主がいたわけではなく別に居住用の館を建てて平時はそこに住むようになります。
特に江戸時代は勝手に築城することはできなかったし天守を作るにしても高さ制限があったりしました。
そういった事情もあったし、江戸時代は戦国時代とは違って戦の無い世の中。
ですから火事などで焼け落ちた天守は再建されないままだったりしています。
例えば江戸城は1657年に起きた明暦の大火で焼失していますが再建されず仕舞いでしたしね。
他にも大坂城金沢城も元々は天守閣が存在したけど落雷等が原因で焼失した後、再建しませんでした。

ちなみに江戸城は現在再建プロジェクトがありますね。
npo-edojo.org
ただ現在ある天守台の上に天守閣が存在した記録はないそうです。
なので、そこに天守閣を建てることには意義を唱える方もいらっしゃいます。

そして私の江戸城再建プロジェクトはこちらww

江戸城(っぽいお城)再建したので散策してみた


月は船 星は白波
坂本城の天守閣でデートをする明智十兵衛光秀と妻・煕子

月は船 星は白波
雲は海 いかに漕ぐらん桂男は
ただ一人して

十兵衛と煕子が坂本城天守閣デートで詠んだ歌。
これについてはTwitterで細川の御隠居さまが詳しく説明されているのでそちらを紹介します。


御隠居様を始めとしてTwitter上にはすぐにこういう解説をサラッと出してくる辺りが尊敬しちゃいます。
知識の深い人が多くて勉強させられることが多いです。

さて、この歌は前回十兵衛が三条西実澄に尋ねられて好きと答えていた柿本人麻呂の歌から派生したものらしくです。
その歌がこちら。

天(あめ)を詠(よ)む

天の海に 
雲の波立ち
月の舟
星の林に
漕ぎ隠る見ゆ
万葉集7巻1068)

「月の船」と「星の林」。
雄大な星空に浮かぶ三日月を船に喩えて、その船は雲が波立つ天の海を漕ぎ進んでいるかのよう。
柿本人麻呂の作品を前回の話以来いろいろ読んでみたけど、どの歌もこういったロマンチストてんこ盛りな歌が多い印象があります。
やまと言葉の美しさをふんだんに駆使しているのが柿本人麻呂の歌なのかな、と思ったりもしました。

今回の「月は船―」の歌は十兵衛が柿本人麻呂の歌を好んでいることに対するアンサーだったりするんですかね。

流人人麻呂

流人人麻呂

1.3.信玄西上作戦からの学び

三方ヶ原の戦いまでの出来事
西上作戦を開始した武田信玄
信長さまの動きが鈍く公方さまとの足並みも悪くなってきたから京へ目指すぞといきまいて出陣の命をだした武田信玄
あっという間に三方ヶ原の戦いで勝利を掴みました(笑)

信長さまの動きが鈍く見えるのは四方八方敵だらけだからだろうなんて思ったりしましたが、実際この頃信長さまがどういう動きをしていたかを見ていきましょう。

信長公記」を読んでみると基本的にこの頃は北近江の浅井長政との戦いがメインとなっている印象です。
その辺以下に箇条書きでザックリと挙げていきます。
日付は全て元亀3年(1573年)の出来事です。

  1. 03月05日 信長さま、北近江へ出陣
  2. 03月24日 武者小路の館の着工式
  3. 04月某日 三好義継、松永久秀が謀叛。河内の畠山昭高を攻める。三好・松永討伐のため佐久間信盛柴田勝家稲葉一鉄らを派遣
  4. 05月19日 信長さま、天下の政務を処理した後、岐阜へ帰還
  5. 07月19日 信長さまの嫡男・奇妙丸の具足初めの儀式が執り行い、親子揃って北近江へ出陣
  6. 07月21日 浅井長政の居城・小谷城方面へ進撃。
  7. 07月27日 小谷城攻めのために虎御前山に築城開始
  8. 08月08日 越前の前波吉継父子が織田方へ出頭
  9. 08月09日 越前の富田長繁、戸田与次、毛屋猪介が織田方へ出頭
  10. 11月03日 浅井・朝倉勢が虎御前山付近に築かれた築地を破壊するため攻勢に出るも木下藤吉郎らが撃退

3月から11月までで信長さまが注力しているのは、やはり浅井攻め。
浅井長政小谷城を攻める前にその周辺の守城や砦を徐々に刈り取って浅井長政にプレッシャーを与えている感じです。
既に浅井四翼の一人と言われていた磯野員昌は織田方へ落ちてしまったし、浅井方だった宮部継潤も織田方に寝返って虎御前山の宮部村の砦を守っていました。
周辺敵だらけの信長さまですけど、着実に浅井氏の息の根を止める準備を進めているのが窺えます。

3月24日の武者小路の館とは京における信長さまの館です。
京へ何度も足へ運ぶわりには専用の館を持たず妙覚寺や本能寺で宿営する信長さま。
それに対して館が無いと不便であろう、と公方さまが建てるように命じたことが発端です。
信長さまはこれを何度も辞退したそうですが、公方さまはこの件を帝にも上奏して将軍として信長さまの館を建てる許可を得ています。
そんなわけで信長さまも渋々、公方さまの命令に従ったのだとか。
ちなみに、この館の奉行のうちの一人が「麒麟がくる」に登場済みの村井貞勝です*1

それから7月19日には信長さまの嫡男・奇妙丸が具足初めの儀式をおこなっています。
でもまだ名前が仮名なので元服はしてないみたいなんですよね。
信長公記」を読んでいくと、仮名呼びじゃなくなるのが翌年8月の浅井攻めの記述から。
なのでそれまでの間に元服したのではないかと思われます。

そして8月は越前の朝倉氏にとってはあまりよろしくない出来事が起きていますね。
朝倉氏の奉行衆の一人であった前波吉継が息子と共に織田方に寝返り。
その翌日には富田長繁らも織田方に転身しています。
そういえば次回予告で朝倉義景に舌を出していた人がいましたね。
あの人も寝返ることになりますが、それがいつのタイミングかは次回のお楽しみということで。

武田信玄徳川家康に大勝した三方ヶ原の戦いは12月22日です。
劇中では『まず遠江へ出て浜松城徳川家康を討つ』なんていってましたけど・・・
浜松城は落とさなかったやん・・・なんていうツッコミはしてはいけないw

武田信玄、西上作戦にあたっては遠江だけじゃなくて三河や美濃へも同時に侵攻しています。
11月初旬には織田方の岩村遠山氏の居城・岩村城が武田方に既に落とされてしまっているんですよね。
三方ヶ原の戦い以前に、既に織田・徳川勢は美濃方面からも武田騎馬軍団の影に脅かされていたわけです。
そういえば十兵衛が武田軍2万以上の兵に対して、徳川方はせいぜい7、8千と言ってました。
これは武田軍が3方向から攻め寄せていたことによって兵力を分散させざるを得なかったからというのも理由の一つでしょう。
信長さまは浅井・朝倉勢との戦いをメインとしつつ畿内での反信長勢力との戦いにも兵力を注ぐ必要があった。
東から攻めてくる武田勢にどこまで兵力を割けるのか、というのは難しいところだったかもしれません。
このまま武田信玄が東から美濃・尾張へとなだれ込んできたら流石に信長さまも為す術が無かったかもしれませんね。

信長さまが公方さまに送った異見書
公方さまに突き付けた17カ条の意見書について語る織田信長
公方さまが信長さまとの決別を決める事となった17カ条の異見書
信長公記」にも全文があります。
さすがにそれを全部丸々載せることはできないので、機会があれば「信長公記」を読んで頂ければと思います。
が、結構な長文です(笑)
一応概略を以下に載せるとこんな感じ。

  1. 宮中参内疎かにしてたら兄上みたいになるよ
  2. 御内書濫発してるようだけど、勝手に出すなって言ったよね?
  3. 忠義をもってよく奉公している者たちを疎かにしてない?
  4. お宝とかをどこぞに移してるみたいだけど、せっかっく信長が作った二条城からどっか移動しようとしてるの?
  5. 社領勝手に取り上げて岩成友通に勝手に与えたよね?
  6. 信長と友好関係にある者たちを不当な扱いをするのはなんで?
  7. ちゃんと奉公して何の落ち度もないのに扶持を加給してくれないって泣きついてくる人たちがいるよ。観世国広、古田可兵衛、上野豪為なんだけどね。
  8. 若狭の粟屋孫八郎の訴訟、放置してるよね?
  9. 特に謀叛とか起こしたわけでもない小泉の刀、脇差、身の回りの品々を没収するのはおかしいよね?
  10. 元亀は不吉な年号だから改元しようって言ってるじゃん
  11. 懲戒した烏丸光康を赦免してあげるように言ったのに、内密でお金を払わせることで許したらしいね?そういうのよくないよ
  12. 諸国から献上された金銀を宮中の為に使うでもなく、内密に蓄えてるの知ってるよ。
  13. 十兵衛が京で徴収した税金を、それ元は延暦寺領だからといって差し押さえたのは不当だよ
  14. 幕府の備蓄米を売って金銀に換えたらしいね?将軍が商売するなんて聞いたことないよ
  15. 男色の相手を依怙贔屓しすぎるから世間から批判されるんだよ
  16. 上に立つ者は自らの行動を慎む、という教え守ってよね
  17. 世間では欲深い将軍、悪御所と呼ばれてるらしいよ。なんでそう呼ばれちゃってるのか考えてみて?

うまく纏められてない部分もあるので、正確に伝わらない箇所があるかもしれません。
その辺はご容赦ください。
だいたいのニュアンスが伝わればいいかなということで。

公方さまも確か言ってたような気がするけど、結構な罵詈雑言です(笑)
天下の将軍によくこんな意見を突きつけられるなぁと思わなくもないw
ただ、信長さま的には理に適った異見書なんですよね。

なぜかというとー
そもそも上洛して将軍になってから信長さまは「殿中御掟」という全21か条からなる掟を公方さまに承認させているからです。
ja.wikipedia.org
麒麟がくる」でもちょこっとだけこの「殿中御掟」の話が出てきました。
元は9条だったものに追加で7条、更に5条追加して全21か条になりました。
17カ条の異見書で信長さまが意見していることは、全てこの「殿中御掟」に反しているからこそなのです。
承認したんだから、ちゃんと守ってくれよっていうのが信長さまの主張。
まぁごもっともな話です。

麒麟がくる」だと公方さまは駒との会話の中で「殿中御掟」の承認はしたが従うつもりはない、と言ってました。
つまり確信犯です(笑)
自ら承認しておいて従わなかったくせに
信長から酷い罵声を浴びせられた
みたいに主張するのって何かしらの反対勢力の主張と似てる気がして嫌ですw
だったら最初から承認しないか承認できる内容まで落とし込めばよかったのに~。

信長さまが公方さまに献上した鵠とは?
信長さまから公方さまへの献上品、鵠
鵠(くぐい)は白鳥の古称ですね。
日本では古来から親しまれている鳥。
日本古代の英雄、ヤマトタケルは死後に白鳥になったという伝承があったりもします。
人が鳥になったら大変だよ・・・(笑)

そんわけで鵠も献上品として贈られる生き物の一つだったようですが、信長さまも鵠を献上されています。
例によって「信長公記」に書かれているのです。
だいぶ先の話ですが「麒麟がくる」ではきっと触れられることもないのでいいでしょう(笑)

天正9年(1581年)7月21日に秋田の安東愛季からの献上品の中に生きた白鳥3羽が含まれていたそうです。
安東愛季って誰って思った方は、こちらの前田利家の同級生ランキングの記事を覗いてみてください。
tsukumogatari.hatenablog.com

この記事でもちょこっと触れてるけど、安東愛季って名前、絶対知らないと読めないですよね(笑)

三方ヶ原の戦い佐久間信盛
十兵衛に遠慮なく思うところを信長さまに直言してほしいと伝える佐久間信盛
伝令で終了した三方ヶ原の戦い
徳川家康武田信玄に完敗した様子です。
信長さまも援軍は送っていたんですけどね。

それと佐久間信盛がどんな関係があるのかって?

それはもちろん
佐久間信盛三方ヶ原の戦いに従軍していたからです。
三方ヶ原の戦いで織田方の援軍として出向いたのは
佐久間信盛平手汎秀、水野信元です。
※「信長公記」ベースのお話です。

水野信元は序盤に何度か登場しましたね。
徳川家康の叔父にあたる人です。
平手汎秀平手政秀の三男、もしくは平手政秀の嫡男・久秀の嫡男と言われている人です。
平手政秀は、織田信秀とよく会話をしていたあのご家老ですね。

この信長さまが送った援軍って何気に家老衆のメンツなんですよね。
このメンツでわずか数千程度の援軍っていうのがいまいち謎なんですが・・・
NHK BSプレミアムの「英雄たちの選択」でMCもされている磯田先生は文献を調べた結果、織田方の援軍は2万だが、各地に分散配置されていたのではないかと仰っています。
当時、織田家の筆頭家老である佐久間信盛を派遣してる時点で、信長さまもこの武田氏との戦を重要視していたんじゃないかと素人考えでも思ったりするわけで、それなりに援軍だって送ってたんじゃないのかなとも思ったりします。
ま、援軍をいくら送っていようとも、織田・徳川連合軍が大敗した事実は変わらないのですが。

ところで佐久間信盛が十兵衛の館を訪ねてきて、帰り際にちょっと十兵衛と会話してましたよね。
この十兵衛との会話はどこで回収されるものだろう?とか考えたりするわけです。
だって去り際の笑顔が何か意味深だったし(笑)

直近で三方ヶ原の戦いがあるから、その戦に出陣する佐久間信盛に焦点をちらっと当てる程度の意味でしかないのか?
いやそれよりもやはり後年重臣なのに追い出されてしまう時に回収するための会話なのか。
とりあえず三方ヶ原の戦いは全く触れられてないので、残るは佐久間信盛追放劇の時なのか。
もしくは全く回収とかされない会話なのかもしれないけどー
あの笑顔が気になる(笑)

あと三方ヶ原の戦いで大敗を喫してしまった徳川家康
信長公記」では退却時に勇ましく弓で敵を射倒しながら浜松城に帰還して、以後は浜松城をしっかり守ったことが記されています。
後年作り話なのに真実かのように広まってる脱糞の話は1ミリも書かれていませんw

聖衆来迎寺
www.nhk.or.jp
麒麟がくる紀行」で紹介されていたお寺、聖衆来迎寺
このお寺は十兵衛が保護したうんぬんの解説をしていたと思いますが、このお寺も延暦寺の麓にあるお寺であり本来なら焼討の被害にあってもおかしくなかったお寺です。
しかしこのお寺は焼かれることはありませんでした。
坂本の町ですら焼討の被害にあっていたにもかかわらず、です。
それは何故かと言うと、どうやら織田信長の家臣、森可成のお墓がここにあったからではないか、と言われています。

森可成は有名な信長さまの小姓・森蘭丸の父であり、信長さまに仕えた戦上手な重臣の一人です。
その森可成は、比叡山の焼討の前年に朝倉・浅井連合軍と戦った宇佐山城の戦いで戦死してしまったんですよね。
宇佐山も坂本周辺ですからそこで亡くなった森可成のお墓は聖衆来迎寺に建てられたのでしょう。
宇佐山城の戦い辺りの話は、麒麟で学ぶ#32の記事でも触れています。
tsukumogatari.hatenablog.com
信長さまからの信頼も厚かった森可成のお墓があったため、焼き討ちの被害に遭うことはなく今でも多くの文化財が現在も残されているということです。
この辺も「麒麟がくる紀行」で触れてほしかったな~
いや私がちゃんと見てなかっただけで実は触れてました?(笑)

1.4.没した登場人物たち

斎藤道三の亡骸に膝をついて深く礼をする明智十兵衛光秀

こちらは麒麟がくる」で亡くなった人たちを
弔うための章
です。
亡くなった日については
Wikipediaの情報と「麒麟がくる」での情報を
照らし合わせてのものですが
人物によって諸説ありますので
あくまでも参考情報ということでお願いします。

1.5.参考資料

今回記事を書くにあたって主に参考とした書籍や
サイトをこちらでまとめて紹介しておきます。
興味持たれた方はご購入または閲覧してみてくださいね。

戦国 戦(いくさ)の作法

戦国 戦(いくさ)の作法

  • 発売日: 2018/06/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
戦国の忍び (角川新書)

戦国の忍び (角川新書)

尋胡隠君 - 中国の漢詩 - 漢詩・詩歌・吟詠紹介 - [学ぶ] - 関西吟詩文化協会
高啓 - Wikipedia
腰斬刑 - Wikipedia
月のこよみ/特集 | 【 月の万葉歌 】天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
柿本人麻呂(柿本人麿) 千人万首
三方ヶ原の戦い - Wikipedia
聖衆来迎寺 - Wikipedia

2.あとがき

十兵衛と違って籠から出られない白鳥
麒麟で学ぶ」第36回目はいかがでしたか?
感想、ご意見等あればコメントをお気軽に。

なんと次回は蘭奢待の話にまで飛んでしまうようです。
あれ?
これってもしかして・・・
武田信玄浅井長政は確実にナレ死なのでは?
山崎吉家と朝倉景鏡が出ているので朝倉氏の滅亡はわずかでも描きそうですけどね。
予告で舌出してる人いましたしね?
まぁそれぐらいのスピード感で進めていかないと麒麟どころか本能寺の変がやってこないっていう。
そんな駆け足でストーリーが進行しそうな中でも朝倉義景の最期がどんな風に描かれるのかはとても興味深いです。
阿君丸の亡くなった姿を目にした時のユースケ・サンタマリアさんの芝居が好印象で焼き付いているので、どんな風に演じて幕を閉じるのか楽しみです。
まさか朝倉義景までナレ死説あり?w

そういえば煕子さんも・・・近いのではないのか・・・?

さて冒頭でも述べましたが
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオであれば
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
当日の放送や再放送も見逃してしまったとしても、いつでも視聴可能です。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。

そして「麒麟がくる」をもっと楽しむために
こちらの書籍もおススメですので
ご興味のある方は是非とも。

NHK出版 2019年11月30日


by ヨメレバ

麒麟がくる 前編 (1) (NHK大河ドラマ・ガイド)

麒麟がくる 前編 (1) (NHK大河ドラマ・ガイド)

  • 作者:池端 俊策
  • 発売日: 2020/01/11
  • メディア: ムック
 

麒麟がくる 後編 (2) (NHK大河ドラマ・ガイド)

麒麟がくる 後編 (2) (NHK大河ドラマ・ガイド)

  • 作者:池端 俊策
  • 発売日: 2020/05/21
  • メディア: ムック
 

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」完全読本 (NIKKO MOOK)

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」完全読本 (NIKKO MOOK)

  • 発売日: 2020/01/11
  • メディア: ムック
 

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!


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こちらから過去記事も読んで頂けると
嬉しいです。

*1:もう一人の担当奉行は島田秀満。

*2:麒麟がくる」では今の所亡くなったことは語られていない。

*3:麒麟がくる」の場合は長良川の戦いから数日後な気がするけどWikipediaベースで載せてます。

*4:信長の野望ベースなら享年23歳。

*5:麒麟がくる」では亡くなっているかどうかの言及はなく、東庵先生も生死どちらとも取れる感じで話している。

*6:信長の野望ベースなら享年42歳。桶狭間の戦いの前哨戦、丸根砦の戦いで討死しているが「麒麟がくる」では語られていない。

*7:実際に亡くなったのは21話と22話の間の期間だが、19話で既にナレ死してます。。。

*8:信長の野望ベースなら享年30歳。桶狭間の戦いの後、今川家からの自立を目指した松平氏との戦いにて戦死。

*9:麒麟がくる」では桶狭間の戦いから4年間がカットされてしまったこともあって、その死を語られることもなかった。

*10:没した月日は9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日など諸説ある。

*11:1540年生年説もあるのでその場合だと享年29歳。