ツクモガタリ

本サイトはプロモーションをふくみます!

「麒麟がくる」第34話はたまの清らかさと正親町天皇の聡明さが光った回

スポンサーリンク

「麒麟がくる」第34話はたまの清らかさと正親町天皇の聡明さが光った回
麒麟で学ぶ」第34回目です。
今回の記事を読むと以下の事がわかります。

  1. 左馬助に恋心を抱くお岸←
  2. 十五郎の諱の真説←
  3. たまとオウムの意外な関係←
  4. 松永久秀の母は二度死ぬ←
  5. さらば和田惟政
和田惟政よ、安らかに・・・w

さて本シリーズの前提事項的なものを
毎回0章に記載していますので、
初めて本シリーズの記事を読む方は
さらっと一読していただけると
助かります。
既に読んだことのある方は
読み飛ばして頂いてかまいません。

また前提の一番最初に記載していますが
本シリーズは「麒麟がくる」の
ネタバレを含みます
当日の放送や再放送も見逃して
まだ視聴されていない方は
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオ
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
見逃し分を視聴できます。
こちらで視聴した上で本記事を読まれると
いいかもしれません。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。

※本記事掲載のAmazonプライムビデオおよびU-NEXT配信情報は、2021年3月31日時点のものです。
最新情報については各サイトにてご確認ください。

しかしネタバレ含んでいるけど、
本記事を読んでから視聴すると
少し前提知識が入った上での視聴になるので
それはそれでいいのかもしれませんけどね。

そして「麒麟で学ぶ」の過去分については
こちらからどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

では今回のお品書きはこちらになります。

ちなみに2019年12月15日から更新中の
麒麟がくる」公式サイト公式Twitterもブックマーク、フォローしておくと
より一層「麒麟がくる」を楽しめると思いますので
まだの方は是非とも。
→2021年3月31日をもって公式サイト・TwitterInstagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!

0.本記事を読むにあたっての前提など

1.「麒麟がくる」第34話「焼討ちの代償」からの学び

頭に石を投げつけられて出血するたまに動揺する藤田伝吾
まずは全体の感想から。

まだ幼いたまに向かって石を投げた大人!
出てこい!(笑)

いくら十兵衛が無差別殺人に加担したとはいえ
その子供は別に関係ないし
向ける矛先間違ってるし
訴え方も間違ってるし
あのシーンはいろいろ腹が立ちました(笑)
もちろんあれはドラマの中の演出なんだけど
似たような状況って現代社会にも
あったりするよなぁ、とかも思ったり。
まぁこの手のシーンって
あまり気分いいもんじゃないですよね
麒麟がくる」に限らないんだけど。

あと印象に残ってるのは
松永久秀の言葉。
十兵衛にも易を勧める松永久秀
『道を教える者を持たぬ者は
闇を生きることになるぞ・・・。』

そういえば十兵衛も
父はとっくになくなってるし
道三さまも叔父の光安も亡くなっていて
母のお牧さんとも今や離れ離れ。
十兵衛に道を教える者といえば
今や松永久秀ぐらい。
いや忘れていた、望月東庵先生も?(笑)

でも松永久秀も数年後には亡くなるし
望月東庵先生もいつ死ぬかわからぬ歳だし(笑)
10年後に50を過ぎて本能寺の変という
大事件を起こす十兵衛の行く末を
暗示しているかのように感じるセリフ。
もしや松永久秀が占っていたのは
お気に入りの十兵衛だったのでは!?

な~んてことはないんでしょうけどw

ていうか、十兵衛
本能寺の変の前に愛宕神社
籤を3回引いたっていう逸話があるけど
そこに繋がる話だったりして?

それよりも何よりも誰よりも
そら恐ろしいと感じたのは
正親町天皇でしょうね!
実は一番うまく信長さまをあやってるのは
正親町天皇なのでは・・・。
蘭奢待も気持ちよく
削り取らせてあげるのでしょう(笑)

といったところで
そろそろ本題に入っていきますが
感想はnoteにも先出しで書いてますので
こちらも読んで頂けますと幸いです。
note.com

ちなみに第34話の公式サイトのトリセツ
こちらです。
今回は松永久秀筒井順慶の関係の解説と
芳仁丸を又売りしていた平吉が
駒に残した8文は現代の金額にすると
どれぐらいかを説明しています。
私の記事でもお金の換算を度々しているので
1文=150円という換算額
そろそろ覚えたのでは(笑)

→2021年3月31日をもって公式サイト・TwitterInstagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!

登場人物の年齢のおさらい

三好長慶と松永久秀を守る明智光秀、三淵藤英、細川藤孝

まずは主な登場人物たちの年齢確認を。
今回は元亀2年(1571年)9月スタート
というわけで全員の年齢を加算しました。
追加した人物は赤字にしています。
また前回の話の中で亡くなった
と判明した人物に関しては
こちらの一覧からは削除して
後述の亡くなった人を弔う章に
引き続き掲載する形にしています。

ちなみに生年不明な人とか
年齢設定不明な人以外の生年については
Wikipediaをベースにしています。
あと基本的に全員数え年の年齢です。

1.1.続・比叡山の焼き討ちからの学び

信長公記」における比叡山焼討ちの描写
比叡山を焼く織田信長
女子供は逃がしてやれと伝吾に命じた十兵衛。
そしてそのこと黙っておいてもいいだろうに
信長さまに打ち明けてしまう正直者っぷり。
十兵衛もこの惨劇には
流石に耐え切れなかったのか。

十兵衛の働きのおかげで完膚なきまでに
比叡山を叩き潰せてにご機嫌な信長さまは
今回の命令違反を許してくれはしたけど
もしや後々この命令違反を回収する出来事が
あったりするのかもしれない
てなことも考えたりした比叡山焼討ち。

さて信長さま贔屓でお馴染みの(笑)
信長公記」では
この比叡山の焼き討ちが
どのように描かれているかといえば
まぁ酷い有様だったことが
細かく書かれています。

根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂・神社、
僧坊、経蔵、一棟も残さず焼き払い
その煙は雲霞の吹きあがるが如くであり
一山ことごとく灰燼の地と化した
とあります。

また、僧・俗・児童・学僧・上人
全ての首を斬り
美女・小童の多くを捕らえて
信長さまの前に引き出され
命乞いをするものまでも
一人残らず首を打ち落としたそうです。
数千の死体がゴロゴロと転がっていた
という比叡山、想像したくありません・・・。

でもこんな風に惨劇を描写する一方で
比叡山の僧に対する著者・太田牛一の評価は
めちゃくちゃ酷評です。

延暦寺は皇都の鎮守であるにも関わらず
日常の行動でも仏堂の修行でも
出家の道を外れ
天下の笑いものになっていることを恥じず
天道に背くことの恐ろしさに気づかず
色欲に耽り、生臭いものを食べ
金銀の欲に溺れて―

と書かれていますからね。
前回記事で書いたように
tsukumogatari.hatenablog.com
延暦寺を始めとして寺社勢力というのは
一言でいえば世の中を牛耳る勢力の一つで
特に比叡山延暦寺はその最たるもの。
松永久秀
『あれをやらねば天下はとれぬ』
みたいな意味合いの話をしていましたが
当時の世の中を変えるには
土地も金も牛耳っていた
比叡山のような寺社勢力を潰すことは
必要不可欠だったろうし
だからこそそこを触れるのはタブー
ということも言えるのでしょう。

無抵抗の人々を殺める非道を悔やみつつも
世にはびこる悪を潰す正義の道を選んだ事に
苦渋に満ちた表情を浮かべた十兵衛でしたが
柴田勝家は意外と意気揚々としていたのが
とても印象的でした(笑)

十兵衛の嫡男・十五郎
明智十兵衛光秀の嫡男・十五郎
なんと十兵衛に嫡男が!
いつの間に~!?
1571年生まれ?の十五郎。
後の明智光慶なのかな?

まぁ諱が本当に「光慶」かどうかは
議論が分かれるとこらしいので
麒麟がくる」ではもしかしたら
十兵衛同様に十五郎呼びでいくのかも?

1571年生まれだとすると
1582年の本能寺の変の時は
数えで12歳ですから
元服の儀式を済ませていない可能性も?
この辺は「麒麟がくる」で
十五郎の成長ぶりを見守っていけば
わかってくることでしょう。

十五郎、いわゆる明智光慶については
こちらの記事でも以前書いているんですが
tsukumogatari.hatenablog.com
お父さんの十兵衛以上に謎に満ちています。
基本的に明智一族はみんな謎だけどw

本能寺の変の前におこなったと伝わる
歌会の愛宕百韻で光慶の名があるらしい事と
本能寺の変後の伝承ぐらいしか
現状は残っていないようです。

ところで諱と言われている「光慶」が
正しいとしたら「慶」てなんだ?
とちょっと考えたりしちゃうんですよね。
十兵衛と信長さまの関係からすると
十兵衛の嫡男が元服するとなれば
信長さまが一字を与えて
「光信」あるいは「光長」と名乗らせた
という方がしっくりきます。

信長さまから「信」の字を拝領した人といえば
信長さまの盟友、徳川家康の嫡男・松平信康
土佐の長曾我部元親の嫡男・長宗我部信親
そして近衛前久の嫡男・近衛信尹のぶただ)
「長」の字を拝領した人は
森可成の次男で鬼武蔵で有名な森長可
長篠の戦いで活躍して一字拝領した金森長近

本能寺の変を起こすぐらいなので
十兵衛が信長さまからの一字拝領を
やんわりと断った可能性もありか!?(笑)

左馬助と岸
明智左馬助は岸の習い事の先生も兼任?
最近裏方として大活躍中の左馬助。
何気に十兵衛の働きは
全て左馬助のおかげだったりしないか?
とか思ったりもしなくもないですが(笑)
そんな左馬助は十兵衛の長女・お岸の
習い事の先生も兼ねているんでしょうか。
優秀すぎる従兄弟です。
そしてお岸は家庭教師・左馬助に
恋心を抱いているに違いありませんね!←

まぁその辺がどうかは置いておくとして
お岸は後々左馬助のお嫁さんになります。
たぶん・・・w

最初は摂津の荒木村重の嫡男・荒木村次に
嫁ぐんですが
荒木村重が信長さまに反旗を翻したため
その際に離縁されて出戻りに。
その後、左馬助に再嫁します。
明智軍記」だと最初から左馬助に嫁いでいた
という事になってるみたいですが
この辺は「麒麟がくる」ではどうなるのか。

いずれにしてもこの二人の場面は
後々回収される気がしています(笑)

たまとオウム
たまとオウム
たまが伝吾をお供に市へ訪れたのは
珍しい鳥、白いオウムを見るためでした。
そこで頭に石をぶつけられて
血がドバっと出たら
伝吾が『ああああああっ!』
と叫んでたのは笑っちゃいけないけど
なんか笑っちゃいました、ごめん伝吾w

そして、私も小さい頃に
勢いよく漕ぎ過ぎたブランコから落ちてしまい
石に頭をぶつけて血がドバっと出たことを
思い出しました(笑)

オウムとたまの関係といえば
以前ツイッターでとある御隠居さまが話してた
鸚鵡返しの話を思い出しました。
特に許可とってないので、どの御隠居さまかは
察するかどうにかしてください(笑)

その鸚鵡返しの話とは
後にたまの夫となる細川忠興
たまに送った贈答歌にまつわる話。
送った時期は諸説あるようですが
細川忠興

「なびくなよ わが姫垣の女郎花 男山より風は吹くとも」

という歌をたまに贈ったそうなんですが
受け取った妻のたまは

「なびくまじ わがませ垣の女郎花 男山より風は吹くとも」

という歌で答えたらしいんですよね。
この歌よく見るとソックリです。
これ和歌における「鸚鵡返し」という
相手の歌の一部のみを変えて
別の趣向の歌として返す
高度なテクニックの一つらしいんです。
たまは教養の高い女性で
和歌も得意だったことが良く伝わる話。

今回の白いオウムが
この鸚鵡返しの話と絡めて登場したのか?
ていうのは流石にちょっと無理やりすぎる?(笑)

1.2.大和を巡る抗争からの学び

大和の筒井順慶と新参者・松永久秀の戦い
我が父祖以来の地を踏み荒らす松永久秀を放ってはおけないという筒井順慶
十兵衛があっさり和議を結ばせた感のある
筒井順慶松永久秀の争いですが
ここで両者の抗争の歴史を
振り返ってみます。

筒井順慶はの一族は
元々大和の興福寺一条院に属する宗徒で
順慶の父・順昭の代で大和一国を収めるほどの
一大勢力となります。
信長の野望・創造 戦国立志伝の筒井順昭
要するにいわゆる寺社勢力の一つだったものが
武士団を形成して戦国大名としての地位まで
昇り詰めたわけです。

この順慶の父・順昭は残念ながら病のため
天文18年(1549年)に比叡山に隠居してしまい
その翌年の天文19年(1500年)には
亡くなってしまいます。
この時、筒井順慶はわずか2歳で
家督を継ぐことになるんですが
当然2歳で何かできるわけでもないので
順昭の弟の筒井順政・順国らが補佐して
勢力の維持に努めていました。
信長の野望・創造 戦国立志伝の筒井順政
大和は元々興福寺をはじめとした
寺社勢力の地盤が強い地域で
幕府が守護も置いてなかったこともあり
順昭が亡くなってもしばらくは
安泰だったのかもしれません。

ところが三好長慶畿内を手中に収めてから
ちょっと様子が変わってきます。
三好長慶は大和も支配下に収めるべく
松永久秀に大和攻略を命じます。
これが永禄2年(1559年)のことであり
筒井順慶はいまだ11歳。
筒井氏に味方をしていた十市遠勝が
松永久秀に降るなど徐々に劣勢になる中
後見役であった叔父の筒井順政が
永禄7年(1564年)に亡くなってしまいます。
そして後ろ盾を失った順慶を狙って
松永久秀は翌年永禄8年(1565年)に
奇襲して筒井城から順慶を追い出します。

居城を追われてしまった順慶ですが
松永久秀と敵対していた三好三人衆
手を組むことによって
翌年の永禄9年(1566年)には
筒井城の奪還に成功。

今度は逆に劣勢に追い込まれた松永久秀
足利義昭を奉じて上洛した信長さまに
近づくことによって形勢逆転を狙います。
そして松永久秀足利義昭の臣となり
『大和は切り取り次第』との許しも得たため
信長さまの援軍も借りつつ
再び大和への侵攻を開始し
再度筒井順慶を筒井城から追い出しています。

こういった経緯からすると
筒井順慶からしたら余所者の松永久秀
地元を荒らす侵略者でしかないんですよね。
まぁ『美しい大和を手に入れたい!』っていう
松永久秀の我儘っぷりは面白かったですが
もうちょっと高尚な理由であってほしかった
という気もします(笑)

松永久秀の裏切り
仲良しな松永久秀と明智十兵衛光秀
敵であったはずの筒井順慶
いつの間にか公方さまと仲良くなって
公方さまの養女を妻として迎えるほど。
大和を切り取り次第といってたのに
その大和の敵と仲良くするとは何事か!?
松永久秀がなるのもわからなくもない。
ただ、そのきっかけを作ったのは
十兵衛なんだけどそれは知ってるのかどうか。
なんか知ってても十兵衛は許しそうですけどね
麒麟がくる」の松永久秀はw

というわけで信長さまから離反するような形で
筒井順慶との戦いを挑むことにした松永久秀
実際には信長さまから離れたのではなく
足利義昭から離れた、ということ。
松永久秀は信長さまの家臣ではなくて
足利義昭の家臣、つまり幕臣でしたからね。

ですが、そもそも松永久秀
筒井順慶が公方さまの養女を娶る以前から
問題行動を起こしています。

それは元亀2年(1571年)5月の事。
松永久秀
紀伊の守護・畠山氏の重臣である安見右近丞を
居城・多聞山城に招いた際に
謀殺してしまうことから始まります。

この安見右近丞の謀殺をきっかけに
三好義継や三好三人衆
畠山昭高の領有する河内を攻めるのです。

畠山氏は永禄の変で前将軍の足利義輝
謀殺されて以来、足利義昭を次期将軍にと
援助していたこともあって
河内の南半国領有を安堵されていました。
一方で河内の北半国を有していたのが三好義継
三好義継も信長さまの上洛に協力したことで
河内北半国の領有を安堵してもらっていました。
しかし元々畠山昭高と三好義継は敵対関係。
畠山昭高はともかく三好義継は
攻めるチャンスを伺っていたのでしょう。

公方さま、つまり足利義昭からすると
松永久秀、三好義継、畠山昭高らの争いは
幕臣同士の内紛のようなもの。
この内紛を収めるべく同じく幕臣
摂津三守護の一人である和田惟政
畠山昭高の援軍として送っています。
そして翌月6月には松永久秀を牽制するために
松永久秀と敵対中の筒井順慶に近づいて
九条家の娘を足利義昭の養女として
筒井順慶の嫁に送り出すことにします。

この筒井順慶との結託は
松永久秀からすると裏切り行為。
主が勝手に敵と仲良くなってたら
そりゃ気分悪いですよね。

松永久秀は三好義継と共に足利義昭との縁を切り
対立していた三好三人衆や阿波の三好勢と
和解をします。
そしてかつての三好勢力を再結集させるのです。

そして2か月後の8月4日には
松永久秀筒井順慶辰市城の戦い
一戦交えているんですが
松永久秀はこの戦で敗れてしまいます。
一方で筒井順慶は再び筒井城を奪還

この戦の結果がきっかけになったのか
3か月後の11月1日に松永久秀佐久間信盛
筒井順慶は十兵衛の仲介によって
和議を結び、信長さまに臣従を誓います。

麒麟がくる」では
十兵衛が一人で和議を纏めてましたけどね。
佐久間信盛はたまに空気みたいに居なくなる(笑)
そして再び裏切るであろう松永久秀(笑)

松永久秀の母
松永久秀は易で何を占っているのか?
2年前に亡くなった母に易
いわゆる占いを勧められたという松永久秀
その母上のお墓は
大阪府柏原市の光徳寺にあるそうです。
光徳寺の過去帳に類するものに
松永久秀の母であることを示す記録が
残っているそうで
その記録によると亡くなったのは
元亀三年(1572)年8月12日だそうです。

あれ!?
麒麟がくる」では
もう亡くなってるけど(笑)

実はこの記録とは別に『多聞院日記』では
永禄11年(1568年)の2月15日に堺で亡くなった
と書かれているそうなんですよね。
麒麟がくる」はこの『多聞院日記』の内容を
採用しているのでしょう。

『多聞院日記』は興福寺塔頭多聞院で
140年もの間、三代の筆者によって書き継がれた
僧侶の日記。
東大寺大仏殿の戦いや比叡山の焼き討ちも含めて
戦国時代から江戸時代にかけての
大和を中心とした畿内の情勢を
良く知ることが出来る貴重な史料です。
一方で光徳寺に残ってる記録も
おそらくお寺のお坊さんが
代々管理してるものでしょう。

間違えたのはどっちなんだろう(笑)

千貫の値打ちがある初花
千貫でという茶入れを吟味する筒井順慶
千貫出すなら易の結果を教えてやろう
松永久秀に唐物茶入れを吹っ掛けられた
筒井順慶でしたが
元々茶の湯にも造詣が深い教養人の順慶は
10貫の値打ちしかないと見破ります。

ちなみに過去の記事での換算式に基づくと
tsukumogatari.hatenablog.com
1貫=15万円です。
つまり松永久秀が順慶に吹っ掛けた茶入れは
150万円ぐらいであり
一方で筒井順慶が言っていた
現在は信長さまが所有しているらしい
初花という茶入れは千貫の値打ちですから
つまり1億5千万円です。
宝くじの当選金額並みです(笑)
千貫どころか1貫でも庶民にはお高い!
お金持ちの道楽は違いますね!(笑)

大文字屋が4年前に見せてくれた
筒井順慶は言ってましたが
これは大文字屋疋田宗観のこと。
京の豪商の一人で、多くの名物茶器を
所有していたことでも知られています。
その宗観の持っていた「初花」は
天下三肩衝と呼ばれる程の名物。
永禄12年(1569年)4月頃に大文字屋宗観から
信長さまに進上されたそうで
以前こちらの記事でもちょこっと触れましたが
tsukumogatari.hatenablog.com
信長公記」にも召上げた名物の一つとして
挙げられています。
ちなみに「信長公記」には金銀・米を
下げ渡して召上げた、とあるので
無理やりぶんどったわけではなさそう(笑)

この初花は後に信長さまの嫡男である
信忠(奇妙丸)が三位中将昇進祝いと
家督相続の印の一つとして譲られますが
本能寺の変によって流出してしまいます。
それ以降はどのような経緯かは不明ですが
入手した松平念誓が徳川家康に献上した後、
賤ケ岳の戦い戦勝祝いで羽柴秀吉に贈られます。
その秀吉の死後は宇喜多秀家に渡った後
最終的には、また徳川家康の下に。

当時の天下人たちの手を順に渡り歩けたのは
「初花」が天下の大名物であったからこそ。

1.3.天台座主を保護した甲斐の虎からの学び

比叡山から逃げた覚恕さま
甲斐で武田信玄に保護された覚恕
比叡山のボス・覚恕さまを探す十兵衛でしたが
比叡山から脱出して東へ下った
という話を覚恕さまの側近から聞きます。

え?覚恕さま、焼き討ち当日
比叡山にいたの?(笑)

まぁこれは「麒麟がくる」の世界では
という話であって
実際には当日覚恕さまは在京していたため
比叡山の焼き討ちの難を逃れています。
また、その後天台座主を辞することを
表明はしていますが
その後もしばらくは天台座主として
扱われたようです。

東へ下った先はもちろん甲斐でしたね。
でもふと思ったんですけど
甲斐へいくルートって信長さまの領地を
通り抜けないといけないので
越前朝倉氏を頼った方が
安全に逃亡出来る気もしますよね。
でもそれだと天台座主沙門信玄」公と
第六天魔王信長」さまの戦いが
薄れちゃうかな(笑)

武田信玄、動く
覚恕を保護した武田信玄は打倒信長を誓う
覚恕さまを保護したの甲斐の守護・武田信玄
当時は甲斐、信濃駿河を領有しており
武田の強力な騎馬軍団は他国でも有名。
戦国時代最強とも言われたりするけど
村上義清には大敗してたりするし
上杉謙信北条氏康との戦いにも
勝てていないような・・・。

まぁそれはさておき
比叡山の焼き討ちの後、覚恕さまを保護した
武田信玄は覚恕の計らいによって権僧正という
高位の僧位を与えられたそうです。
これは比叡山の焼き討ちの翌年
元亀3年(1572年)のこと。
また、焼討で焼失してしまった比叡山
甲斐で再興という構想を
武田信玄は思い描いていたようです。
武田信玄の西上作戦が功を奏していたら
それも実現していたのかな。

さて比叡山焼き討ちをした信長さまに対して
信玄公は相当お怒りになったようで
信長さまに対してその行為を非難する
書状を送ったそうです。
その書状に書かれていた自署が
天台座主沙門信玄』
これは天台座主を保護する信玄』
という意味らしいんですが
この書状に対して返信した際の
信長さまの署名が
第六天魔王信長』
信長さまが魔王と呼ばれるのはこの辺から。
これはイエズス会宣教師のルイス・フロイス
日本布教長宛てに書いた書簡に記されている
信長さまと信玄公のやり取り。
ただこの第六天魔王の件は
ルイス・フロイスの書簡のみでしか確認できず
信憑性は乏しいとも言われています。

その辺の信憑性うんぬんはともかく
わざわざ覚恕さまを舞台に引っ張り出して
甲斐の武田信玄にも保護してもらった以上は
『テンダイノザス・シャモン・シンゲン』
『ダイロクテンノ・マオウ・ノブナガ』
やり取りを「麒麟がくる」では
見せてほしいところですね(笑)

ところで和田惟政、密かに討死
あなたは和田惟政を覚えていますか?
信長の野望・創造 戦国立志伝の和田惟政
覚えているわけがありません。
だって名前は出てきても
姿は一度も見せてませんから(笑)

しかも一番最初に出てきたのは
和田惟政本人じゃなくて
和田惟政の館。
足利義昭が還俗する前に
兄・足利義輝を殺害した
三好三人衆たちから逃れて
匿われたのが和田惟政の館でした。
なぜか本人は登場しない和田惟政の館

和田惟政足利義昭の脱出や
信長さまへの上洛要請など
十兵衛が主人公でなければ
もしかしたらもうちょっと脚光を
浴びれたかもしれない残念な武将です。
摂津三守護にまで任命された人なのに
配役されないなんて可哀そうだ!

と思っていたら
時は来てしまいました・・・。

そうです
和田惟政は語られることなく
戦で亡くなってしまいました。

亡くなったのは白井河原の戦いにて。
元亀2年(1571年)8月28日におきた
三好勢と足利幕府軍との戦い。
これは前述した松永久秀の畠山氏重臣謀殺を
きっかけとして三好義継や三好三人衆
畠山氏の領有する南河内に攻め込んだ事で
発生した戦。
畠山氏への援軍として
足利義昭は摂津三守護の一人である
和田惟政を送るわけですが
西国街道上の白井河原を挟んで
三好勢の荒木村重中川清秀の軍勢と
対峙することになります。

三好勢約2500騎の軍勢に対して
幕府側の軍勢は、まだ陣形も整っておらず
和田惟政と茨城重朝の軍勢で500騎ほど。
敵の1/5の兵力では流石に敵うはずもなく
敵軍へ向かって突撃した和田惟政
この戦で討死してしまうんです。

足利義昭を匿った館の主でありながら
一度もその姿を見せることのなかった
和田惟政に合掌。

1.4.没した登場人物たち

斎藤道三の亡骸に膝をついて深く礼をする明智十兵衛光秀

こちらは麒麟がくる」で亡くなった人たちを
弔うための章
です。
亡くなった日については
Wikipediaの情報と「麒麟がくる」での情報を
照らし合わせてのものですが
人物によって諸説ありますので
あくまでも参考情報ということでお願いします。

1.5.参考資料

今回記事を書くにあたって主に参考とした書籍や
サイトをこちらでまとめて紹介しておきます。
興味持たれた方はご購入または閲覧してみてくださいね。

戦国 戦(いくさ)の作法

戦国 戦(いくさ)の作法

  • 発売日: 2018/06/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
戦国の忍び (角川新書)

戦国の忍び (角川新書)

明智光慶 - Wikipedia
筒井順慶 - Wikipedia
松永久秀 - Wikipedia
初花 - Wikipedia
白井河原の戦い - Wikipedia

2.あとがき

松永久秀と明智十兵衛光秀の座れ座ってますコント
麒麟で学ぶ」第34回目はいかがでしたか?
感想、ご意見等あればコメントをお気軽に。

今回はあまり話が進んでないこともあって
ネタをどうするか困った結果
薄い内容になった気がします(笑)

そして「麒麟がくる」って
あと10回で
放送終わっちゃうんですけど
大丈夫?
十兵衛、丹波ちゃんと攻略できる?
丹波は結構大変だと思うんだけどなぁ(笑)
やっぱり5週分削られるっていうのは
大きい気がしますね。

ぶっちゃけ「麒麟がくる」のメインは
本能寺の変が始まる直前ぐらいから
だと思っているので
その辺以降の話が薄くならないように
脚本してほしいなぁ
というのは
ただの私の我儘です(笑)

それにしても公方さまの変わり様が
ちょっと、いやだいぶ怖い・・・。
と思ったけど
考えてみたら思い通りにならずに
ちょっと不貞腐れ気味だった兄・義輝と
似てる気もしてきました。
やっぱ顔は全然違うけど兄弟だなぁ!←

さて冒頭でも述べましたが
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオであれば
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
当日の放送や再放送も見逃してしまったとしても、いつでも視聴可能です。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。

そして「麒麟がくる」をもっと楽しむために
こちらの書籍もおススメですので
ご興味のある方は是非とも。

NHK出版 2019年11月30日


by ヨメレバ

麒麟がくる 前編 (1) (NHK大河ドラマ・ガイド)

麒麟がくる 前編 (1) (NHK大河ドラマ・ガイド)

  • 作者:池端 俊策
  • 発売日: 2020/01/11
  • メディア: ムック
 

麒麟がくる 後編 (2) (NHK大河ドラマ・ガイド)

麒麟がくる 後編 (2) (NHK大河ドラマ・ガイド)

  • 作者:池端 俊策
  • 発売日: 2020/05/21
  • メディア: ムック
 

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」完全読本 (NIKKO MOOK)

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」完全読本 (NIKKO MOOK)

  • 発売日: 2020/01/11
  • メディア: ムック
 

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!


ここからは当サイトの宣伝です。

ツクモガタリ
以下のランキングサイトに参加しています。
バナーをポチって頂けると
今後の励みになります!
にほんブログ村
にほんブログ村 にほんブログ村へ
人気ブログランキング

また、ツクモガタリ
歴史人物の記事を主戦場としつつ
ブログ運営関連の記事なども投稿している
雑記ブログです。
こちらのINDEXページ
各記事のカテゴリの説明と共に
ピックアップ記事や
カテゴリの記事一覧へのリンクも
掲載しています。

tsukumogatari.hatenablog.com

このINDEXページを基点として頂くと
過去に投稿済みの記事へも
アクセスしやすいです。
こちらから過去記事も読んで頂けると
嬉しいです。

*1:麒麟がくる」では今の所亡くなったことは語られていない。

*2:麒麟がくる」の場合は長良川の戦いから数日後な気がするけどWikipediaベースで載せてます。

*3:信長の野望ベースなら享年23歳。

*4:麒麟がくる」では亡くなっているかどうかの言及はなく、東庵先生も生死どちらとも取れる感じで話している。

*5:信長の野望ベースなら享年42歳。桶狭間の戦いの前哨戦、丸根砦の戦いで討死しているが「麒麟がくる」では語られていない。

*6:実際に亡くなったのは21話と22話の間の期間だが、19話で既にナレ死してます。。。

*7:信長の野望ベースなら享年30歳。桶狭間の戦いの後、今川家からの自立を目指した松平氏との戦いにて戦死。

*8:麒麟がくる」では桶狭間の戦いから4年間がカットされてしまったこともあって、その死を語られることもなかった。

*9:没した月日は9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日など諸説ある。

*10:1540年生年説もあるのでその場合だと享年29歳。