「麒麟がくる」第43話から本能寺の変後の未来や麒麟はくるのかを考えてみる

スポンサーリンク

「麒麟がくる」第43話から本能寺の変後の未来や麒麟はくるのかを考えてみる
麒麟で学ぶ」第43回目です。
今回の記事を読むと以下の事がわかるかもしれませんw

  1. 荒木村重の行方
  2. 波多野兄弟
  3. 信長さまに追放された人たち
  4. 生きていた土岐頼芸
  5. 麒麟はくる?
  6. 安田作兵衛の活躍w

さて本シリーズの前提事項的なものを毎回0章に記載していますので、初めて本シリーズの記事を読む方はさらっと一読していただけると助かります。
既に読んだことのある方は読み飛ばして頂いてかまいません。

また前提の一番最初に記載していますが本シリーズは「麒麟がくる」のネタバレを含みます
当日の放送や再放送も見逃してまだ視聴されていない方はU-NEXTまたはAmazonプライムビデオNHKオンデマンドをチャンネル登録すると見逃し分を視聴できます。
こちらで視聴した上で本記事を読まれるといいかもしれません。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。

※本記事掲載のAmazonプライムビデオおよびU-NEXT配信情報は、2021年3月31日時点のものです。
最新情報については各サイトにてご確認ください。

しかしネタバレ含んでいるけど、本記事を読んでから視聴すると少し前提知識が入った上での視聴になるのでそれはそれでいいのかもしれませんけどね。

そして「麒麟で学ぶ」の過去分についてはこちらからどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

では今回のお品書きはこちらになります。

ちなみに2019年12月15日から更新中の
麒麟がくる」公式サイト公式Twitterもブックマーク、フォローしておくと
より一層「麒麟がくる」を楽しめると思いますので
まだの方は是非とも。
→2021年3月31日をもって公式サイト・TwitterInstagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!

0.本記事を読むにあたっての前提など

1.「麒麟がくる」第43話「闇に光る樹」からの学び

第43話の感想はnoteの方に先出しで書いているのでそちらをご参照ください。
第43話は今は亡き道三さまの想いをしっかりと受け継いでいる十兵衛を感じた回だったので、いつも以上にアツい内容になっているような気がしなくもないw
note.com

というわけで、さっさと本題の方へ。

ちなみに第43話の公式サイトのトリセツはこちらです。
十兵衛と細川藤孝の活躍で丹波と丹後も織田領になっていますね!
そして長年の宿敵であった本願寺も信長さまの軍門に降り、甲斐の武田氏も滅亡。
いよいよ敵は西の太守・毛利氏のみか。
あれ?関東の北条氏は?(笑)

→2021年3月31日をもって公式サイト・TwitterInstagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!

登場人物の年齢のおさらい

三好長慶と松永久秀を守る明智光秀、三淵藤英、細川藤孝

まずは主な登場人物たちの年齢確認を。
今回は天正7年(1579年)夏開始。
というわけで全員の年齢を1加算。
追加した人物は赤字にしています。
また前回の話の中で亡くなったと判明した人物に関しては、こちらの一覧からは削除して後述の亡くなった人を弔う章に引き続き掲載する形にしています。

ちなみに生年不明な人や年齢設定不明な人以外の生年については、Wikipediaをベースにしています。
あと基本的に全員数え年の年齢です。

1.1.丹波・丹後攻略からの学び

荒木村重の行方

そういえば前回謀反を起こした荒木村重がどうなったかは結局語られず終いでした。
荒木村重は1年近く籠城して信長さまに抵抗します。
しかし味方の高山右近中川清秀が織田方に寝返り、頼みの綱の毛利氏からの援軍もなかなかこない。
孤立無援状態となり窮地に立たされた荒木村重天正7年(1579年)9月2日に有岡城を脱出し、嫡男・村次の守る尼崎城へ移ってしまいます。

荒木村重に代わって有岡城を守ったのが荒木久左衛門
荒木久左衛門は元々池田知正という名なんですが、荒木村重の配下の当時は荒木姓を名乗っていました。
信長の野望・創造 戦国立志伝の池田知正
その荒木久左衛門、妻子を人質として城に残した上で尼崎城へ退去しています。
これは、織田方から「尼崎と花隈の二城を明け渡せば人質を助命する」という提示があり、それを尼崎城にいる荒木村重に伝えるためでした。
この時点で有岡城は織田方に落ちたことになり、有岡城の戦いは終結します。

しかし荒木久左衛門は荒木村重を説得することはできず、出奔して淡路へ逃げてしまったそうです。
そのため荒木村重や荒木久左衛門の見せしめとして信長さまは、人質の処刑を命じます。
信長公記」によると、12月13日辰の刻(午前8時前後)に人質の122人が尼崎に近い七松で磔にされ鉄砲で撃ち殺したり槍や薙刀で刺し殺したこと、侍女388人、男124人が家4軒に押し込まれて焼き殺されたことが書かれています。
悲鳴は煙とともに空に響き、地獄の鬼の呵責もこれかと思われた、と表現されていますから、凄惨な状況であったことは容易に想像できます。
そして12月16日辰の刻に荒木村重の身内の者たちを京都で成敗することを信長さまは命じます。
当日は、車1台に二人ずつ乗せて、京都市中を引き廻し、更に車3台に子供たちを乳母ともども7、8人ずつ乗せて市中を引き廻した後に、六条河原で処刑。
美女と有名な荒木村重の妻・だしの姿もそこにはありました。
ちなみに成敗の担当奉行は、越前衆の不破光治、前田利家佐々成政、原政茂、金森長近の5人だったそうです。

信長公記」には荒木村重の身内の者たちが処刑前に詠んだ歌が数多く載せられてたり処刑の様子が詳細に書かれています。
これは信長さまにたてついた荒木村重ネガティブキャンペーンみたいな感じで記述を割いているのかもしれないけど、後世の人が見たら信長さまの極悪非道ぶりの方が印象に残っちゃいますよね・・・。

この荒木村重の謀反に関しては2014年の大河ドラマ軍師官兵衛が詳しいですが、現時点ではストリーミング配信は公開されていないのが残念。

ところで、荒木村重は結局その後どうなったのかというと、嫡男の村次と共に花隈城へ移って相変わらず信長さまに抵抗し続けるんですが池田恒興との戦いに敗れてしまい、その後は毛利氏の下へ亡命。
本能寺の変で信長さまが十兵衛に斃されると堺に戻り、秀吉が天下をとった後に茶人として復帰しています。
しかし秀吉とは相変わらず折り合いが悪く、後に出家して荒木道薫と名乗ったそうです。
そして天正14年(1586年)5月4日に堺で亡くなっています。享年52歳でした。

十兵衛の丹波攻略
波多野氏の八上城を落として丹波攻略を果たした明智十兵衛光秀
当初は何年かかってもいいと言っていた信長さまが突如1年以内に攻略しろと方針転換してきた丹波攻略。
見事その無理難題をやってのけた十兵衛ですが、実際相当苦労しています。
麒麟がくる」では詳細に描かれていないので、その労苦がいまいちボンヤリとしか伝わっていないかもしれません。

十兵衛の丹波攻略で手を焼かせたのが丹波の赤鬼・赤井直正と波多野氏。
tsukumogatari.hatenablog.com
天正4年(1576年)の黒井城の戦いでは「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる先鋒で黒井城を包囲する十兵衛の部隊を散々に打ち負かし「丹波の赤鬼」の名を世に知らしめることとなるんですが、この時の十兵衛の敗戦は、一度は信長さまに従った波多野氏の裏切りが影響しています。
第43話で首を塩漬けにされてしまった波多野兄弟です。

では黒井城の戦いがどんな感じだったかというと、十兵衛率いる織田方は赤井直正の籠る黒井城の四方に陣を取った上で攻め立てる予定でした。
ところが、四方のうち三方を担当していた波多野氏の部隊が赤井直正の弟・幸家の攻撃をきっかけに裏切って織田軍を挟撃するように攻め立てます。
形勢が逆転して追い詰められた十兵衛は京都へ逃げざるをえない状況に。
信長さまからすると、この時の裏切りの報服が波多野氏兄弟の磔だったのかもしれません。

このようになかなか信長さまに従わない丹波国人衆が手こずらせていたことも確かなんですが、十兵衛が丹波攻略時に大変だったのは他国への戦も参陣していたことでしょう。
丹波攻略を信長さまに命じられた以後も、石山本願寺との戦や紀州の雑賀攻め、謀反を起こした松永久秀との戦いにも兵を出しています。
さらに羽柴秀吉の毛利攻めの援軍で播磨へも出陣していますし、当然荒木村重が謀反を起こした際にも駆り出されているわけです。
石山本願寺との戦い、天王寺の戦いの折には倒れた十兵衛ですが、丹波、播磨、摂津、紀伊畿内のあちこちを駆け巡るように働いていたら、そりゃ過労で倒れてもおかしくありません。
丹波攻略は丹波の国衆の抵抗の強さも苦労したんでしょうけど、畿内の反信長勢力との戦いが更に丹波攻略を難しくしていた気がします。

しかし、丹波の強敵・赤井直正天正6年(1578年)3月に病死してしまいます。
赤井直正の嫡男・直義は、この時まだ9歳。
赤井直正の弟・幸家が赤井氏取り纏めるものの、丹波の赤鬼という赤井氏は求心力を失います。

赤井直正が亡くなった後に丹波へ出陣した十兵衛は園部城の荒木氏綱を攻略。
そして翌年の天正7年(1579年)2月には波多野氏の八上城を攻略し、8月に赤井氏の黒井城を落として十兵衛は晴れて丹波を平定します。
丹波を攻略した十兵衛は、丹波一国をそのまま領地として信長さまより与えられます。
加えて、十兵衛には丹後南半国を与えられた細川藤孝や大和の筒井順慶が寄騎(簡単に言えば十兵衛の部下)として配されていて、寄騎も含めると十兵衛は天正8年(1580年)頃に240万石ほどの勢力を持っていたことになるそうです。
越後の上杉謙信や甲斐の武田信玄の所領が130~150万石ぐらいという話を聞くと、十兵衛の勢力が織田家中でなくとも相当なものであったことは想像できるんじゃないでしょうか。

ところで十兵衛を苦しめた赤井直正は、後妻が近衛前久の妹君だし「麒麟がくる」には登場するのかなと思ってたんですが登場せず。
全話数が削られていなければ、丹波攻略ももう少し描かれたかもしれないし、丹波の赤鬼の赤井直正も登場したかもしれません。
その場合に赤井直正を演じるのは、直正の弟・幸家が先祖と言われる俳優の赤井英和さんだったりして?(笑)


細川藤孝の丹後攻略

十兵衛と共に丹波攻略を信長さまに褒め称えられていた細川藤孝
正確には、この頃って細川姓ではなく長岡姓を名乗っていたと言われています。
公方さまが京から追い出された後、細川藤孝は山城の長岡に知行を宛がわれるんですが、この際に名字を長岡藤孝に改めています。
後に細川姓に戻すんですが、それは関ヶ原の戦いの後。

さて細川藤孝の丹後攻略に話を戻すと、当時の丹後守護は一色氏。
一色氏といえば、かつては室町幕府四職に数えられた名家。
ちなみに四職の概略は以下の通りです。

室町幕府の軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官(頭人、所司)に交代で任じられた守護大名の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の4氏を指して「四職」と称する。
引用:Wikipedia

要するに室町初期は勢力を有していた一色氏なんですが戦国時代下では衰退し、没落の一途を辿っていました。
当時の一色氏・当主は一色義道
信長の野望・創造 戦国立志伝の一色義道
一色義道は信長さまが足利義昭と共に上洛した際には信長さまに与していたんですが、比叡案の焼討をきっかけに織田家と袂を分かちます。
これがきっかけで細川藤孝が丹後攻略を命じられるんですが一色氏の抵抗が強くなかなか攻略できずにいたところを十兵衛が加勢。
一色義道が亡くなった後に後を継いだ一色満信(義定)に細川藤孝の娘を嫁がせることで和議を結び、それ以降は丹後北半国を一色満信、南半国を細川藤孝が領有することを信長さまに認められます。
信長の野望・創造 戦国立志伝の一色満信
この一色満信も十兵衛の寄騎で本能寺の変の後は十兵衛に味方しています。
そのため羽柴秀吉が十兵衛を山崎の戦いで破った後は、細川氏によって宮津城内で謀殺されてしまい、一色氏は降伏してその領地は細川氏のものに。

ところで一色満信の妻・伊也(菊の方)は、細川藤孝の娘というのは前述のとおり。
夫を謀殺した兄を恨んでいた伊也が降伏の際に兄・細川忠興に懐刀で斬りつけて鼻に深い傷跡を残した、という話は有名だったりします。

磔にされた波多野兄弟

命は助けると十兵衛が約束した八上城の波多野兄弟は、安土に送られると信長さまの命によって安土の浄巌院慈恩寺磔刑に処されてしまいました。
波多野兄弟とは波多野秀治(ひではる)波多野秀尚(ひでなお)、そして波多野秀香(ひでたか)の3人。
信長の野望・創造 戦国立志伝の波多野秀治
波多野秀香は波多野氏の重臣坂井重貞の次男でしたが波多野秀治の父・波多野元秀の三男として迎え入れられたそうです。
つまり、波多野秀治・秀尚とは義理の兄弟ということになりますね。

この波多野秀香も秀治らと共に安土で処刑されたと言われる一方で、別の伝承、十兵衛の母・牧が絡む話があります。
ちまでは有名な母・牧が磔に処されてしまった伝承です。
その伝承では、秀香は秀治らと共に安土へ送られることなく八上城に残ります。
和議の条件として義兄・秀治らが命の保障をされた上で人質として安土へ送還されるわけですが、十兵衛もその証として自分の母やその腰元衆数名を人質として波多野方へ送っています。
しかし、波多野秀治・秀尚は信長さまによって安土で磔刑に。
それを知った波多野秀香は和議を破った報復として、十兵衛の母を磔の刑に処しその亡骸を十兵衛の下へ送り返すのです。
その後も波多野秀香八上城で籠城して織田方に抗い続けるものの観念して城に火を放ち場内で切腹して果てます。

この話、現在は後世に作られた逸話とされていて波多野秀香も秀治らと共に安土で処刑されたというのが通説になっています。

ちなみにグンゼの創業者・波多野鶴吉八上城落城後に落ちのびた波多野秀香の三男・定晴の末裔らしいです。
www.gunze.co.jp

1.2.闇に光る樹を伐る十兵衛からの学び

佐久間信盛追放

佐久間信盛、過去の記事で何度も触れてきましたが信長さまに追放されてしまいました。
任せていた石山本願寺攻めでさしたる功を上げられなかったことを始めとして、信長さまの累々たる不満の蓄積の結果。
それが信長さま自筆による19ヶ条の折檻状にびっしりと書かれています。
信長公記」にもそれがまるっと載せられているんですが、Wikipediaにも現代語訳版があります。
興味のある方は覗いてみてください、信長さまの怒りがひしひしと伝ってきますw
ja.wikipedia.org

この折檻状は佐久間信盛とその嫡男・信栄(のぶひで)に宛てられたもので、佐久間父子共々が高野山へ追放されています。
麒麟がくる」作中でも佐久間信盛ともう一人高野山へ向かう者がいましたが、おそらくそのもう一人が佐久間信栄でしょう。
信長の野望・創造 戦国立志伝の佐久間信栄
佐久間信盛といえば織田家の筆頭家老。
信長さまが若き頃から主要な戦場には常に従軍して戦働きをしてきた功労者。
織田家中でも最も所領の多い重臣中の重臣だったのに、突然の追放劇には織田家中でも激震が走ったことは間違いありません。

そして佐久間信盛追放の直後に追放されている家臣もいます。
それが、林秀貞安藤守就、丹羽氏勝の3人です。
信長公記」では彼らを遠国へ追放したとあり、その理由はかつて信長さまが尾張で苦心していた頃に敵対していたからだ、と言います。

林秀貞は信長さまの弟・織田信勝を擁して信長さまに敵対していた時期がありました。
しかし織田信勝を信長さまが謀殺した後は、外交や行政面で重きを置かれた重臣として扱われてきました。
麒麟がくる」だと「林佐渡守」としてセリフ内のみでの登場はありましたが、配役はありませんでした。
信長の野望・創造 戦国立志伝の林秀貞
安藤守就は西美濃三人衆の一人です。
tsukumogatari.hatenablog.com
かつて信長さまが今川義元を攻める際の援軍を斎藤道三さまに依頼したことがありましたが、援軍の将として派遣されて那古野城に在番し、信長さまの留守を守ったことがあります。
また安藤守就の娘が竹中半兵衛の妻であり、美濃の斎藤龍興斎藤義龍の嫡男)を稲葉山城から追放した際には娘婿の竹中半兵衛に協力しています。
そして、後に美濃が信長さまの手に落ちるのは安藤守就を始めとした西美濃三人衆が織田方に寝返ったことが要因の一つだったりします。
元は美濃・斎藤氏の家臣なので確かに信長さまに敵対していたことはあるけど、それなら稲葉一鉄だって・・・(笑)

そして最後の丹羽氏勝。
丹羽氏勝は元は守山城主であった信長さまの叔父・織田信次に仕えていました。
この織田信次がやらかしてしまった事件があります。
以前の記事で信長さまの弟たちをざっくり紹介した際にちょこっとその事件に触れています。
tsukumogatari.hatenablog.com

その事件とは、信長さまの弟・秀孝を織田信次の家臣・洲賀才蔵が信長さまの弟と知らずに弓で射殺してしまった事件です。
家臣が殺した人物が織田秀孝であることを知った織田信次は、信長さまの報復を恐れて逃げ出してしまいます。
一方で主のいなくなった守山城織田信次家臣団たちが立て籠もりました。
事件の報を聞きつけた織田信勝(信長さまの弟)が信長さまより先に動いて、守山城下に火を放つなど報復してきたからでしょう。
この時に守山城内で籠城していた一人が、丹羽氏勝です。
また、織田信勝が信長さまに敵対した際には、織田信勝方についた織田信次の家老・角田新五に従っていました。
丹羽氏勝はこの頃のことを責められているのでしょう。

要するに三人とも30年ぐらい前の話をほじくり返されて無理やり罪に問われた感じです。

家臣となってからは信長さまに忠節を誓ってよく働いてきた三人のはずなのに、突然大昔のことで追い出されるって理不尽極まりないですよね。
本能寺の変がなくても、信長さまは誰かに殺されてしまったのではないかと思ってしまいますw

ちなみに佐久間信盛は、天正10年(1582年)1月16日に高野山で病死しています。
本能寺の変が起きる前、つまり信長さまが存命中に亡くなってしまうんですが、それを不憫に思ってか信長さまは息子の佐久間信栄を赦免して旧領を安堵したそうです。

曲直瀬道三は望月東庵先生のモデル?

目の調子が良くない帰蝶さまを診察してくれたのが曲直瀬道三
どうやら望月東庵先生の古い知り合い、という設定らしいです。

そもそも曲直瀬道三は「麒麟がくる」で当初登場させる話もあったみたいな話を聞いたことがあります。
脚本家の池端俊作さんは曲直瀬道三を登場させるのには難色を示して採用しなかったんだけど、自由にいろんな立場の人たちと交流できる医者の設定は使えるということで、望月東庵先生が生まれたとかなんとか。
何で読んだのかさっぱり覚えていないので、もしかしたら自分の妄想の可能性も?w

曲直瀬道三についてはこちらの過去記事でも触れていますが、
tsukumogatari.hatenablog.com

1507年から1594年に生きていた人で望月東庵先生と年齢は被りそうだし、京で活躍した名医で足利義輝三好長慶を診察していたなんて話があることからも、東庵先生のモデルであっても不思議ではありません。

ていうか、道三の娘・帰蝶が名医の道三に診察してもらうのってわざと?(笑)

甲斐武田氏の滅亡と土岐頼芸

甲斐の武田氏が超高速で滅亡しました。
予想通りです(笑)
甲斐の武田氏の滅亡といえば2016年大河ドラマ真田丸の序盤が記憶に新しいです。
武田家を潰した張本人みたいなレッテルを張られ続けていた武田勝頼のイメージが払拭されました。
というわけで、甲斐の武田氏滅亡ストーリーに関しては「真田丸」を是非見て頂きたいです、という丸投げ(笑)

それよりも「麒麟がくる」で武田家滅亡に関連する話でどうしても触れておきたいことがあります。
それはかつて斎藤道三さまに美濃を追い出された美濃守護家の土岐頼芸
tsukumogatari.hatenablog.com
このお方、武田家が滅亡した天正10年(1582年)2月~3月辺りにはまだご存命中です。
年齢は数えで81歳というご高齢なので、当時としては長生き。

なぜ土岐頼芸の話がここで出てきたかは、引用した記事を読んでもらってもわかるんですが、美濃を追い出された土岐頼芸が流れに流れて辿り着いていたのが甲斐の武田氏の下だったんです。
織田家による甲州征伐の際にはちょうど甲斐の武田氏に庇護されていて、それを稲葉一鉄が発見しています。
かつての主君であった土岐頼芸を見つけた稲葉一鉄は、土岐頼芸を美濃へ戻れるように取り計らったそうです。
麒麟がくる」の稲葉一鉄はそんな取り計らいをしそうに無いんですけれども(笑)
いつの頃からか目を患っていた土岐頼芸は失明状態だったらしい。
稲葉一鉄の助力もあって久々に美濃へ戻れた土岐頼芸なんですが、天正10年12月4日(1582年12月28日)に亡くなったと言われています。

甲州征伐でほんのちょっとでも土岐頼芸の再登板あったりしないのかなと淡い期待をしていたんですが残念ながらノータッチでしたw

登場遅すぎな丹羽長秀と供応役交代

信長さまの重臣として有名な丹羽長秀が、今更感たっぷりに登場してきました。
信長の野望・創造 戦国立志伝の丹羽長秀
このタイミングでなんでや、もっと前に出るタイミングがいくらでもあったじゃんって感じが拭いきれません(笑)
いやもしかしてこれは、本能寺の変の原因説の一つにある四国征伐回避説と絡めての登場かとも思いましたが、そもそも信長さまの子で四国征伐の総大将になるはずだった織田信孝が未登場だけど、最終回に出てくるのかな。
丹羽長秀織田信孝の補佐役として付けられるはずなんですが、どっちかといえば秀吉の中国大返し後の絡みで登場させたんでしょうか。
でも本能人変以降の話は一瞬で終わりそうなので、それも違うかと思ったり思わなかったり。

その辺の話はともかく、丹羽長秀といえば安土城の普請総奉行を命じられたことが有名でしょうか。
それよりかは、羽柴秀吉の「羽柴」の「羽」であることの方が一般的には知られているのかも?
羽柴秀吉が主役のドラマは数多く作れていますし、羽柴の姓の由来は必ず話に盛り込まれますし。
柴田勝家のように戦働きで目立った活躍の印象もないので地味だけど有能そうな武将的な扱いをされてそうな気がします。

この丹羽長秀に信長さまは徳川家康の供応役を引き継がせようとしていましたが、「信長公記」だと十兵衛は京都・堺で珍しい食料を調達し、5月15日から17日の3日間にわたってしっかり務めたことが記されています。
ただ、中国への出陣の命を十兵衛に出したのは確かです。
その頃秀吉は、備中高松城を水攻めにしようとしていた際中だったんですが安芸から毛利輝元吉川元春小早川隆景といった毛利主力部隊が駆けつけて、秀吉軍と対峙します。
その辺の情勢の報告を聞いた信長さまはこれを契機に一気に毛利を落としてしまおうということで、十兵衛、細川忠興池田恒興、塩河吉太夫高山右近中川清秀らに先陣として出陣するよう命じます。
十兵衛が徳川家康をもてなした最終日の5月17日に安土から坂本へ帰っているので、接待中に命を受けたか接待を終えて命を受けたかどちらかなんでしょう。

大昔によく取り上げられた十兵衛の逸話で家康の供応役を命じられるも手際宜しくなく解任させられた話は「川角太閤記の記述。
「川角太閤記」は江戸時代初期に田中吉政に仕えた川角三郎右衛門が書いた秀吉の逸話をまとめた全5巻からなる書物。
秀吉と同時代に生きた人から聞いた話や覚書を元にして本能寺の変から関ケ原の戦いまでの逸話がまとめられています。
そしてこの「川角太閤記」では十兵衛が解任されて代わりに供応役となるのは堀秀政です。
信長の野望・創造 戦国立志伝の堀秀政
ついでに言うと「信長公記」では5月20日にも徳川家康を接待した記述があって、その時は丹羽長秀堀秀政・長谷川秀一・菅谷長頼に信長さまは命じています。
この時は信長さま自身も膳を並べて一緒に食事をしたとあるので「麒麟がくる」はどっちかっていうと5月20日の接待のシーンを描いたのかもしれません。
5月15日からの3日間の接待には信長さまがいたかどうかは記述が無いのでわからないんですが、5月20日の方はわざわざ『忝いことには信長自身も膳を並べて―』と書かれていたり食事の後は安土城に招いたことも書いてあるので、多分十兵衛が接待した3日間は信長さま不在だったのかな、と。

元々「麒麟がくる」は「信長公記」に記載されている内容が物語の端々に散りばめられてる事が多いので、供応役の話に関してもベースは「信長公記」なのかもしれません。
供応役の解任は次回に引き続きで話が続いてるので、解任後に誰がなるのかは最終回でのお楽しみということで。

1.3.最終回「本能寺の変」直前からの学び

いよいよ次回は最終回なので、ここでは「麒麟がくる」の最重要イベントである本能寺の変に向けて、いろいろ考察してみたいと思います。
そんなに熟慮はしていない、思いつき半分以上の考察ですw

信長さまは変わってしまったのか?

十兵衛は信長さまが変わってしまったというの頻繁に言うようになりました。
でも、本当に信長さまは変わってしまったのか?

個人的には信長さまは何も変わっていないと思っています。
波多野兄弟の首の塩漬け、あれを見た時に改めて実感しました。

波多野兄弟の首の塩漬け、デジャブを感じた人も多いはず。
そうです、徳川家康の父・松平広忠の首。

当時、今川義元にけしかけられて織田家を攻めようとしていた松平広忠
その情報を察知した信長さまは父・織田信秀の許しを得ることも無く松平広忠を殺して首をとってしまう。
殺された松平広忠の首は大事に桶に収められて、信長さまの下に。
信長さまは父に褒められることを想像しながら嬉しそうに松平広忠の首が収められた桶を父・信秀に見せるんですが・・・信長さまの望みは1ミリも叶えられませんでした。
信長さまは父を喜ばせたい、褒められたい一心でやった事であって、何も悪いとは思っていない。

今回の第43話で十兵衛に見せたくて波多野兄弟の首を塩漬けにしたというのは、この松平広忠の時と本質的な部分は同じ。
いずれも「麒麟がくる」の信長さまのサイコパス要素を物語るエピソードであり、空恐ろしさを感じる所でもあります。

命は助ける約束を破って処刑した信長さまの行為が、十兵衛の怒りを誘うことになるとは思わなかったのかどうかが疑問だったりはしますが・・・二人の関係がこじれかけていたので、困らせることで逆に十兵衛にかまってほしかったのかもしれません。
大好きな異性に意地悪しちゃう小学生みたいな?(笑)

この辺の理由がどうであれ「麒麟がくる」の信長さまの本質は変わってないと思うんです。
弟の信勝と違って両親に褒めらずに育ってしまった信長さまにとって、まわりから褒めることが何よりも大事なこと。
だからこそ褒めてくれる人が大好きなわけで、褒めてくれる人を見つけたらその人が喜んでくれそうなことは『手段は選ばず』何でもやる。
その『手段を選ばず』は、時には常軌を逸してしまうことがある。
だからこそ桶狭間の戦いでの逆転劇や比叡山焼き討ちのような常人には出来ないことも成し得て、天下人まであと少しというところまで来れたのでしょう。

この信長さまの常軌を逸脱した行動力は、ある意味常人の十兵衛や帰蝶さまには見抜けなくても仕方がない気がしています。
その恐ろしさを感じとっていたのは帝の正親町天皇だけかもしれません。

十兵衛は信長さまを倒してどうする?

次回、十兵衛は信長さまを討つべく秀吉の援軍には向かわず反転して本能寺へ向かうはずです。
十兵衛が信長さまを倒す理由については、簡単に言えば麒麟がくる世を呼べる人ではないと判断したから。
十兵衛は、当時の宗教観や道徳観を普通に兼ね備えている常識人なので、信長さまの神をも恐れぬ言動には元々違和感を持っていたはずです。
二条城建築時に仏像の頭をぺしぺし叩いてる姿とか(笑)
比叡山焼討での女子供構わず容赦ない仕打ちも、公方さまを粗雑に扱うようになったことも、十兵衛は納得していないし、その手の諫言をしても全く聞き入れてくれない信長さまに対して、これはもうついていけない、となるのは当然のこと。
最終的に本能寺の変を起こす起点となるのは最終回のあらすじに書かれている「究極の命令」なんでしょうけどね。

それはそれとして、では十兵衛は、信長さまを倒したあとの未来をどのように考えているのか。

まず前提として私の中では十兵衛自身が天下人になることは考えていないと思っています。
この前提が崩れた時点で以後の文章はゴミになってしまうんですが、その時はその時で(笑)

十兵衛は、結局のところ室町幕府の将軍を捨てきれていません。
信長さまは室町幕府を蔑ろにしていて、場合によっては無くなってもいいぐらいに考えていそうですが、十兵衛はそうじゃありません。
あくまでも室町幕府の将軍を武士の棟梁として据えることが全国の武士の統率には不可欠であり、将軍を中心とした幕府に立て直す必要はあっても幕府を壊すことまでは考えていないと思います。
そういう観点からいくと、十兵衛はやはり公方さま、足利義昭を中心とした室町幕府の再興を考えているんじゃないかと思います。
特に、苦労した丹波の戦で公方さまの威光を改めて感じ取っていましたしね。
なかなか戦が収まらないのは、結局公方さまを敵に回してしまっているからであり、公方さまが味方であれば無用な戦もなくなるのでは、と考えているのではないかと。

十兵衛が考えている未来が公方さまを中心としたものであるとすれば、細川藤孝本能寺の変後に十兵衛に与しない理由にもうまく繋がる気がしています。
細川藤孝は既に公方さまのことを見限ってそうですし、室町幕府とは違う新たな力が今の世の中には必要だと思ったからこそ、信長さまの家臣になったのでしょう。
十兵衛だって同じ気持ちのはず、ぐらいのことも細川藤孝は考えていたかもしれません。
信長さまに関しては帝の譲位の件など、最近は納得いかないことも多かったので本能寺の変を起こしたこと自体には文句はないのかもしれません。
しかし、十兵衛が公方さまを中心とした世の中を作ろうとしていることを知ってそれは無理、公方さまは無理、味方にはなれないとなるんじゃないかと。
十兵衛自身が天下を取る!って言ったら素直に従ってくれる気がします。
あくまでも「麒麟がくる」の細川藤孝の場合はですけどね。

ちなみに筒井順慶も次に天下を統べる人を見極めるために積極的には十兵衛と秀吉の戦に関わらなかった、という流れなのかなと思います。

十兵衛は間違っても羽柴秀吉が天下を取る未来は考えていないでしょう。
考え方が合わなそうだし、そもそも羽柴秀吉のこと、大嫌いでしょうしね。

次回、麒麟はくるのか?

麒麟がくる」の最大の謎である、そのタイトル。
麒麟とは平らかな世に訪れるという平和の象徴のような伝説の生き物。
はたしてこのタイトルはどのようにして回収されるんでしょう。
ここが結局この最終回直前になってもよくわかりませんw

十兵衛が生きてる間に麒麟は絶対こないはずなのに、タイトルは「麒麟がくる」。
そういえば「麒麟がくる」がスタートする前にタイトルの謎について記事を書きました。
tsukumogatari.hatenablog.com

この記事では「麒麟」を登場人物の誰かに当てはめて考えていて、だいぶ適当なことを書いていましたw
そもそも登場人物が「麒麟」だったら、もうきちゃってるから話おかしくならない?っていうようなツッコミは誰からもなかったようです(笑)
この時の予想はファンタジー要素強めのものなので、その辺は許していただきたい(笑)

麒麟がくる」においては、あくまでも「麒麟」は象徴的な存在であり、平らかな世になることが「麒麟がくる」世の中、ということなのでしょう。

戦乱の無い平和な「麒麟がくる」世の中にいったい誰が導くのか。
という話でいくと、やはり江戸幕府を開いた徳川家康になっちゃいますよね。
秀吉の時代は長くないし朝鮮出兵もあったし千利休や甥の秀次を殺しちゃうし、麒麟がくるとは思えません。
あと、あの秀吉好きじゃないし・・・(笑)

以前noteか何かに少し書いたんですが、エピローグは関ヶ原の戦いが終わって江戸幕府が開かれた頃、つまり徳川家康征夷大将軍に任じられたころまで話は飛ぶ、ていうぐらいしか自分には考えられていません。
その時代には駒がまだ生きていて東庵先生直伝の針や万能薬の芳仁丸で生計を立てている。
ちなみに私の中で東庵先生は亡くなっていることに(笑)
駒は元々家康とも面識があるので、たまに家康に呼ばれて針をしてあげたり昔話で盛り上がったり、時には十兵衛の話題も出てきたり。
十兵衛の昔話をしているうちに「麒麟」の話を思い出し、今の世がどうであるのか、まだ麒麟が呼べていないにしてもそういう世の中にしていきたい、と家康は話す。
そして駒にいつも付き従っている従者の一人、それは成長した明智十五郎であった(完)

みたいなありきたりな妄想ぐらいしかできない自分が悔しい(笑)

でも十五郎がどうなるのかも気になるところなんですよね。
生き残ってほしいなぁ。

最終回「本能寺の変」に期待していること

最後の最終回で密かに期待していることがあります。
それは明智三羽烏の一人、安田作兵衛(国継)の登場です。
tsukumogatari.hatenablog.com
安田作兵衛は十兵衛の家臣として本能寺の変に従軍していて、山崎の戦い以後も生きていた武将です。
特に本能寺の変は安田作兵衛にとって一番の見せ場で、信長さまへ一番槍を入れたのがこの安田作兵衛。
そして森蘭丸を討ち取ったのがこの安田作兵衛なんです。
というのを後世、安田作兵衛は人に語っていたらしい。
ちなみに私のブログには安田作兵衛のご子孫さまが畏れ多い事に訪問してくださっていてコメントも頂戴していたりします。

ていうこともあったりするので、安田作兵衛には是非最終回だけでも登場してほしいなと切に願っています!

そういえば佐賀県唐津市にある唐津城天守閣で安田作兵衛の槍が展示されています。
www.saga-s.co.jp
この槍が信長さまや森蘭丸を傷つけた槍なのかどうかはよく知りませんが、お近くの方は是非覗きにいってみてください。
入館可能な時間は、午前9時から午後5時までで15歳以上500円、小中学生250円、未就学児は無料だそうです。
karatsu-bunka.or.jp

1.4.没した登場人物たち

斎藤道三の亡骸に膝をついて深く礼をする明智十兵衛光秀

こちらは麒麟がくる」で亡くなった人たちを
弔うための章
です。
亡くなった日については
Wikipediaの情報と「麒麟がくる」での情報を
照らし合わせてのものですが
人物によって諸説ありますので
あくまでも参考情報ということでお願いします。

1.5.参考資料

今回記事を書くにあたって主に参考とした書籍や
サイトをこちらでまとめて紹介しておきます。
興味持たれた方はご購入または閲覧してみてくださいね。

戦国 戦(いくさ)の作法

戦国 戦(いくさ)の作法

  • 発売日: 2018/06/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
戦国の忍び (角川新書)

戦国の忍び (角川新書)

有岡城の戦い - Wikipedia
荒木村重 - Wikipedia
池田知正 - Wikipedia
一色義道 - Wikipedia
一色義定 - Wikipedia
波多野秀香 - Wikipedia
佐久間信盛 - Wikipedia
林秀貞 - Wikipedia
丹羽氏勝 - Wikipedia
曲直瀬道三 - Wikipedia
丹羽長秀 - Wikipedia

2.あとがき

闇に光る木を伐る明智十兵衛光秀
麒麟で学ぶ」第43回目はいかがでしたか?
感想、ご意見等あればコメントをお気軽に。

泣いても笑ってもいよいよ次回が最後の最終回。
十兵衛は何故本能寺の変を起こすのか。
最終回のあらすじに書かれている「究極の命令」とは何なのか。


そして「麒麟はくる」のか?
個人的にはまったく予想外の展開が待っていることを期待!

さて冒頭でも述べましたが
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオであれば
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
当日の放送や再放送も見逃してしまったとしても、いつでも視聴可能です。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。

そして「麒麟がくる」をもっと楽しむために
こちらの書籍もおススメですので
ご興味のある方は是非とも。

NHK出版 2019年11月30日


by ヨメレバ

麒麟がくる 前編 (1) (NHK大河ドラマ・ガイド)

麒麟がくる 前編 (1) (NHK大河ドラマ・ガイド)

  • 作者:池端 俊策
  • 発売日: 2020/01/11
  • メディア: ムック
 

麒麟がくる 後編 (2) (NHK大河ドラマ・ガイド)

麒麟がくる 後編 (2) (NHK大河ドラマ・ガイド)

  • 作者:池端 俊策
  • 発売日: 2020/05/21
  • メディア: ムック
 

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」完全読本 (NIKKO MOOK)

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」完全読本 (NIKKO MOOK)

  • 発売日: 2020/01/11
  • メディア: ムック
 

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!


ここからは当サイトの宣伝です。

ツクモガタリ
以下のランキングサイトに参加しています。
バナーをポチって頂けると
今後の励みになります!
にほんブログ村
にほんブログ村 にほんブログ村へ
人気ブログランキング

また、ツクモガタリ
歴史人物の記事を主戦場としつつ
ブログ運営関連の記事なども投稿している
雑記ブログです。
こちらのINDEXページ
各記事のカテゴリの説明と共に
ピックアップ記事や
カテゴリの記事一覧へのリンクも
掲載しています。

tsukumogatari.hatenablog.com

このINDEXページを基点として頂くと
過去に投稿済みの記事へも
アクセスしやすいです。
こちらから過去記事も読んで頂けると
嬉しいです。

*1:第38話より良通から一鉄に。

*2:第39話より奇妙丸から信忠に。

*3:第39話より木下藤吉郎から羽柴秀吉に。

*4:麒麟がくる」では今の所亡くなったことは語られていない。

*5:麒麟がくる」の場合は長良川の戦いから数日後な気がするけどWikipediaベースで載せてます。

*6:信長の野望ベースなら享年23歳。

*7:麒麟がくる」では亡くなっているかどうかの言及はなく、東庵先生も生死どちらとも取れる感じで話している。

*8:信長の野望ベースなら享年42歳。桶狭間の戦いの前哨戦、丸根砦の戦いで討死しているが「麒麟がくる」では語られていない。

*9:実際に亡くなったのは21話と22話の間の期間だが、19話で既にナレ死してます。。。

*10:信長の野望ベースなら享年30歳。桶狭間の戦いの後、今川家からの自立を目指した松平氏との戦いにて戦死。

*11:麒麟がくる」では桶狭間の戦いから4年間がカットされてしまったこともあって、その死を語られることもなかった。

*12:没した月日は9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日など諸説ある。

*13:1540年生年説もあるのでその場合だと享年29歳。

*14:信長の野望ベースなら享年45歳。

*15:麒麟がくる」第37話時点で亡くなった説明はないが、蘭奢待切り取りの前年に亡くなっているはず。

*16:麒麟がくる」では、その死は語られていない。また永正12年(1515年)生年説の場合は享年60歳。

*17:麒麟がくる」では触れられていないが越前で起こった一向一揆との戦いで亡くなっているはず。

*18:信長の野望ベースなら享年48歳。

*19:信長の野望ベースなら享年69歳。

*20:享年も46歳、42歳、36歳など諸説ある。

*21:麒麟がくる」第42話時点では亡くなったことについて触れられていない。

*22:麒麟がくる」では、その死は語られていない。