三淵藤英(みつぶち ふじひで)は、室町幕府最後の将軍・足利義昭に最期まで忠誠を尽くした戦国武将です。
ゲームの「信長の野望」シリーズには未登場ですが、新規武将で登録できます。
ステータスを思いのままに設定できますが、三淵藤英の人生を知っていたほうが、史実に近いイメージで再現できるでしょう。
そこで本記事では、大河ドラマやゲームの話も交えながら、三淵藤英の生涯や魅力を解説します。
三淵藤英の出自・功績・逸話
三淵藤英は、室町幕府の奉公衆として仕えた武将です。
名前(読み方) | 三淵藤英(みつぶち ふじひде) |
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別名/渾名/二つ名 | 弥四郎、弾正左衛門尉、大和守/初名:藤之 |
生年 | 不明(1530年頃と推測) |
没年 | 天正2年7月6日(1574年7月23日) |
父 | 三淵晴員 |
母 | 養源院(徳大寺家の関係者か) |
兄弟姉妹 | 宮川尼、細川藤孝(異母弟)、玉甫紹琮、梅印元冲、長岡義重 |
妻 | 正室:不明 継室: 側室: |
子 | 秋豪、光行、朽木昭貞、朽木昭知、朽木昭長 |
以降では、三淵藤英の生涯や功績を詳しく見ていきましょう。
出自
三淵藤英は、室町幕府奉公衆の名門・三淵氏の嫡男として生まれました。
三淵氏は山城国三淵郷を領したことから三淵を称したと伝わります。
3代将軍・足利義満の庶子である持清を祖とする説もあるようです。
父の三淵晴員(みつぶちはるかず)は、12代将軍・足利義晴に仕えた幕臣で、和泉細川家から養子に入った人物でした。
藤英の生年は不明です。
弟の細川藤孝(幽斎)が天文3年(1534年)生まれなので、それより数年前の1530年ごろ、あるいはもう少し上か。
この細川藤孝は、藤英の兄弟のなかでもっとも有名でしょう。
異母弟と伝わる藤孝は細川家の養子となり、文武両道の名将として知られることになります。
もう一人の弟、長岡義重は後に三淵の名跡を継ぎ、細川忠興に仕えました。
また、藤英の初名は藤之ですが、後に13代将軍・足利義藤(後の義輝)から「藤」の一字を賜って藤英と改名しています。
家族や親類
嫡男の秋豪(あきひで)は、父と共に足利義昭に仕え、その受け、「秋豪」(又は秋英)と名乗りました。
※足利義昭が「義秋」と名乗っていたころの話。
ただし後述するように、父と共にして坂本城で自害する運命をたどっています。
次男の光行は、父の死後、叔父である細川藤孝に預けられて養育されました。
光行は後に関ヶ原の戦いや田辺城の戦いで活躍し、叔父の藤孝を助けたことが徳川家康に評価され、旗本として1000石を賜っています。
三淵家の血脈は、この光行の系統が江戸時代を通じて旗本として存続しました。
※美濃国内で1200石を領していた。
その他の子、昭貞・昭知・昭長は、それぞれ朽木家の養子に。
藤英の直系は残念ながら絶えましたが、傍系は弟の細川家らとの縁戚関係を通じ、江戸時代まで武家として存続できたのです。
内政や合戦での功績
藤英は若い頃から父・晴員と共に将軍家に出入りし、13代将軍・足利義輝の時代には奉公衆として本格的に活動するようになりました。
史料上の初出となるのは、天文9年(1540年)、10歳のころの話。
清光院の使者として相国寺鹿苑院へ派遣されています。
山科言継の『言継卿記』には、藤英の父・三淵晴員の姉と記載されているが、晴員自身が養子のため、血縁関係のある姉かどうかは不明。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも描写されていたように、三好長慶との対立が深まり、将軍・義輝が京を追われた際も付き従っていたのでしょう。
ところが永禄8年(1565年)5月、足利幕府の足元を大きく揺るがす大事件が起きます。
将軍・義輝が三好三人衆に暗殺されてしまうのです(永禄の変)。
ここで藤英は弟の藤孝ら幕臣と共に、ある行動にでます。
それは、興福寺一乗院に幽閉されていた義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)の救出作戦です。
医学に詳しい、同じく幕臣の米田求政を医者に変装させて監禁場所を探らせるなど、周到な計画を立て、見事救出に成功。
救出に成功した藤英らは、覚慶(後の足利義昭)を奉じて近江から越前へと流浪の旅を続けます。
この間、朝倉義景や織田信長といった有力大名への協力要請に奔走。
ついに永禄11年(1568年)、信長の支援により上洛を果たしました。
義昭が15代将軍に就任すると、その功により藤英は大和守に叙任され、伏見城主として南山城一帯の支配を任されます。
ちなみに、永禄12年(1569年)に三好三人衆が、足利義昭を本圀寺で襲撃する事件が発生します(本圀寺の変)。
『信長公記』などの史料には藤英の名がなく、その場に居たのかどうかは不明です。
細川藤孝もあとから援軍として駆けつけているので、藤英自身も何かしらの理由で出払っていたのでしょうか。
その後も和田惟政らと共に各地で三好氏と戦い、室町幕府の威信回復に尽力していきます。
しかし、将軍・義昭と信長の関係は徐々に悪化し、義昭を見限った弟の藤孝は信長側に付きます。
これに激怒した藤英は、藤孝の勝竜寺城を襲撃する計画を立てたそうです。
※失敗に終わり、計画どまりだった模様。
そして元亀4年(1573年)7月、ついに義昭が信長に対して挙兵。
藤英は二条御所の守備を担当しました。
しかし織田軍の大軍に包囲されると、共に籠城していた公家衆は次々と城を捨てて逃亡……。
それでも藤英だけは、主君への忠義を貫き、最後まで抵抗を続けました。
7月12日、柴田勝家の説得を受けてようやく降伏。
その後は信長に従い、居城の伏見城に戻ります。
一方で元主君の足利義昭は、槇島城の戦いで織田信長に敗れ、河内国若江城に追放されます。
藤英が必死に守ってきた室町幕府は、事実上滅亡してしまうのです。
翌月2日には、弟の藤孝と共に淀城の石成友通を攻め、討ち取る功を挙げています。
晩年と最期
二条御所や槙島城の戦いのあと、藤英は織田信長から弟の藤孝とともに淀城の攻撃を指示されます。
淀城には、義昭派の石成友通(いわなりともみち)が立て籠もっていたのです。
藤英は、8月2日に弟の藤孝と共に淀城 を攻め、石成友通を討ち取りました。
ところが翌年の天正2年(1574年)5月、藤英は突如所領を没収されてしまいます。
明智光秀の元に預けられ、居城の伏見城破却も命じられる始末。
そして同年7月6日。
藤英は嫡男の秋豪と共に、明智光秀の居城・坂本城で自害を命じられました。
生年が不明なため享年はわかっていません。
信長の突然の処分の理由もよくわかっていません。
信長の疑り深い性格によるものか、あるいは明智光秀の讒言によるものか。
本能寺の変のあと、明智光秀に協力を要請さえた藤孝は、それを拒否しています。
これは兄・藤英の死が関係しているのかどうか……。
押さえておきたいエピソード
三淵藤英にまつわる逸話は、以下を押さえておくといいでしょう。
- 永禄の変後、和田惟政、一色藤長、仁木義政、米田求政らと共に覚慶(義昭)救出作戦を成功させた
- 弟・藤孝の織田方への鞍替えに激怒し、勝竜寺城襲撃を計画した(計画は頓挫)
- 二条御所の戦いでは、他の武将が逃亡する中、最後まで抵抗を続けた
- 信長に突如所領を没収され、自害させられた理由は不明
ほかにも興味深いエピソードがあれば教えていただきたくっ!
弟の藤孝と違って情報が少ない……。
信長の野望シリーズでの三淵藤英
戦国時代を舞台にしたシミュレーションゲーム「信長の野望」シリーズで、三淵藤英は一度も登場したことがありません。
そこで、「信長の野望・新生」で新規武将として登録する場合のステータスを、勝手に設定してみました!
登録する際の参考にどうぞ!
能力値
信長の野望・新生での能力値は、以下のように設定してみました。
タイトル | 政治 | 知略 | 武勇 | 統率 |
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信長の野望・新生 | 78 | 65 | 60 | 66 |
所持戦法や特性は以下のとおりです。
タイトル | 戦法 | 特性・個性 | 志 | 奉行特性 |
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信長の野望・新生 | 底力 |
|
- | 寺社奉行 |
父・晴員と次男・光行のステータスを参考に、感覚で設定しています。
戦法は晴員を引き継ぐ形にし、特性の自衛と血気は、史実上のイメージから。
政治力はもうちょっと上でもいいのかなと思ったりもしたのですが……この辺は設定すr人によって意見が分かれそうです。
みなさんなら、三淵藤英のステータスはどのように設定しますか?
コメントなどで教えていただけるとうれしいです!
ゲーム内で向いている役割
紹介したステータスは、政治力に長けた万能タイプ。
弟の藤孝ほどでないにしても、政務・外交・軍事なんでもこなせます。
血気を持たせているので、積極的に攻撃をしかけますが、防御力がアップする自衛を設定している分、自滅するリスクは低いかもしれません。
ただそれも、自勢力内で戦う場合のみの話。
他勢力下で戦う際は、血気盛んにはやる気持ちを抑えてあげましょう!
足利将軍のもとで登場させれば、有能な幕臣の一人として、城主や軍団長を任せるのもいいでしょう。
藤英は、やはり将軍家最高に尽力させるのが似合っている気がします。
三淵藤英プレイにおすすめのタイトル
三淵藤英プレイにおすすめの「信長の野望」シリーズは、以下4つのタイトルです。
それぞれでおすすめポイントが異なるので、プレイスタイルに合うものを選びましょう!
タイトル | おすすめポイント |
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信長の野望・創造PK |
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信長の野望・創造 戦国立志伝 |
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信長の野望・大志 |
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信長の野望・新生 |
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「信長の野望・創造 戦国立志伝」以外のタイトルの場合、大名プレイをするには以下どちらの方法が必要な点に注意してください。
三淵藤英が登場する小説・書籍・アニメなど
続いて、各メディア作品で三淵藤英に関するものをピックアップしておきます。
三淵藤英が主人公の作品はおそらくありません。
とはいえ、登場する作品や言及のある作品は、今回紹介するもの以外にもちらほらありそうです。
興味がある書籍や作品があればぜひ!
登場する小説
- 『決戦!本能寺』 2018年 講談社文庫
「幽斎の悪采」- 細川幽斎(藤孝)の視点から、兄・三淵藤英の死に対する想いを核とする短編です。兄弟の葛藤を心理的に掘り下げた創作で、兄の死が弟に与えた影響を描いています。>
リンク - 『国盗り物語』 1971年 司馬遼太郎
斎藤道三と織田信長の興亡を描く長編小説です。三淵藤英は義昭周辺の幕臣として短く触れられる程度ですが、室町幕府末期の雰囲気を感じられます。>
リンク - 『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』 2015年 堺屋太一
豊臣政権の「補佐役」秀長の生涯を描いた作品です。三淵藤英は話の中で触れられる程度ですが、補佐役という立場の重要性を理解できる一冊です。>
リンク
三淵藤英の関連書籍
- 『戦国武将列伝8 畿内編【下】』 2023年 天野忠幸(編)
金子拓氏による「三淵藤英――足利義昭に従い続けた股肱の臣」の章があります。最新の史料研究に基づき、義昭政権における奉公衆としての位置づけから坂本城での自害までを実証的に整理した必読の評伝です。>
リンク - 『地図と読む 現代語訳 信長公記』 2019年 太田牛一/訳:中川太古
一次史料『信長公記』を地図付きで読み解く定本です。義昭挙兵と二条御所・槇島の戦いなど、藤英が関わった局面を一次史料ベースで確認できます。>
リンク - 『足利将軍たちの戦国乱世 応仁の乱後、七代の奮闘』 2023年 山田康弘
義尚から義昭までの将軍権力の変遷を通史で解説しています。義昭政権と近臣層(奉公衆)の実態を俯瞰でき、三淵藤英の位置づけ理解に有用です。>
リンク
大河ドラマでの三淵藤英
三淵藤英は、大河ドラマでは以下の2作品に登場歴があります。
- 『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年) 演:渡辺寛二
- 『麒麟がくる』(2020年) 演:谷原章介
大河ドラマでは、足利義昭の側近として登場します。
特に『麒麟がくる』では、義輝・義昭を支えるブレーン的存在。
弟の細川藤孝との対比が強調されたり、明智光秀との関係性が描かれるなど、重要なキャラクターの一人として丁寧に描かれていました。
『麒麟がくる』と同じく戦国時代が舞台の『豊臣兄弟!』では、登場する可能性は低めと予想しています。
主人公の秀長との関りが薄く、その兄・秀吉とも深い関係性が伝わっていないからです。
ただし、ストーリー上、藤英を絡めたほうがいい場面では、登場機会を作ってくれるかもしれませんね!
ゆかりの地:三淵藤英と歴史を感じる場所
三淵藤英のゆかりの地を紹介します。
旧二条城(二条御所)跡(京都市上京区)
旧二条城跡は、元亀4年(1573年)に、三淵藤英が最後まで守備した将軍御所の跡地です。
京都市上京区下立売通室町西南角(平安女学院の角)に位置し、現在は石碑と案内板が設置されています。
徳川期の二条城とは別の場所にあり、信長が義昭のために造営した御所でした。
藤英はここで織田軍の大軍に包囲されながらも、他の武将が退去した後も一人で抵抗を続けました。
地下鉄烏丸線「丸太町」駅から徒歩圏内で、京都御苑至近のため、御所周辺の史跡散策とあわせて訪れてみてください。
槇島城跡(京都府宇治市)
槇島城跡は、京都府宇治市槇島町大幡にある平城跡です。
元亀4年(1573年)、藤英の主君、足利義昭が最後の抵抗を試みて籠城した城。
室町幕府が実質的に滅亡した場所とも言えるでしょう。
藤英が二条御所を守備していた同時期に、義昭はこの城で織田軍と対峙していました。
現在は宅地化が進み、公園の石碑や案内板で位置を示すのみです。
JR・京阪「宇治」駅から徒歩15分ほどの場所にあり、平等院など宇治の名所巡りのついでに立ち寄ってみてください。
勝竜寺城公園(京都府長岡京市)
勝竜寺城公園は、京都府長岡京市にある城跡公園です。
弟・細川藤孝の居城であり、藤英が弟の織田方寝返りに激怒して襲撃を計画した城。
現在は市の史跡公園として整備され、復元櫓や庭園、資料展示があります。
細川忠興・ガラシャゆかりの地としても著名で、二人の婚礼の地でもあります。
JR京都線「長岡京」駅東口から徒歩約10分でアクセスでき、整備された公園として見学しやすい環境です。
坂本城跡(滋賀県大津市)
坂本城跡は、滋賀県大津市下阪本周辺の琵琶湖岸にある城跡です。
天正2年(1574年)7月6日、三淵藤英が嫡男秋豪と共に自害を命じられた最期の地。
明智光秀が築いた湖城で、琵琶湖の水運を押さえる要衝でした。
現在は城跡公園として石碑と解説板が設置され、渇水期には湖中に石垣が現れることもあります。
JR湖西線「比叡山坂本」駅から徒歩15~30分で、日吉大社や比叡山麓の門前町散策と併せて訪れることができます。
三淵藤英の生涯と功績まとめ
三淵藤英は、室町幕府奉公衆として代々将軍家に仕えた家柄に生まれ、最後まで足利将軍家への忠誠を貫いた武将でした。
忠義にこだわりつづけた奉公衆と言えるかもしれません。
信長に降伏後、わずか1年で自害を命じられ、この世を去ったのが残念でなりません。
「信長の野望」シリーズにはまだ登場したことはありません(スマホゲームには出てるけど)。
でも安心してください。
新規登録で思いのままの三淵藤英を作ってしまえばいいのです!
室町幕府の将軍たちを支える、忠義の厚い武将として、ぜひ復活させてあげてください!
また、ゲーミングPCのサイト「ツクモル?」で「信長の野望 新生」のプレイにおすすめのゲーミングPCを紹介しているので、ゲーミングPCの購入を検討している人は参考にしてみてください。
では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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