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歴史人物語り#19 文武両道稀代の教養人にして当時唯一の古今伝授伝承者・死んではならぬ細川藤孝(幽斎)

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今回は明智光秀盟友であり縁戚である
細川藤孝(ほそかわふじたか)です。
雅号の幽斎(ゆうさい)の方が有名かもしれませんね。
麒麟がくる」では眞島秀和さんが演じられることが既に発表されています。

www6.nhk.or.jp

そして最初に言っておきます。
今回は長いのでその辺はご承知おきください!(笑)
では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

 

1.細川藤孝(ほそかわふじたか)とは

通称与一郎
1534年、三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男として生まれます。
お兄さんは以前既に紹介した、三淵藤英(みつぶちふじひで)です。

tsukumogatari.hatenablog.com

父も兄も三淵なのに藤孝の姓は細川ということは、
そうです細川家の養子に出されたのです。

そもそも父の三淵晴員和泉上守護細川元有(ほそかわもとあり)の次男
兄に細川元常(ほそかわもとつね)がいます。
晴員は母方の叔父で将軍側近の幕臣三淵晴恒(みつぶちはるつね)の養子となります。
おそらく三淵晴恒に男児がいなかったのでしょうね。
じゃあ細川藤孝はどこの細川さんに養子にいったのでしょうか?
細川家といえば、管領職の細川吉兆家(以後、細川管領家が有名です。
が、養子に出されたのは三淵晴員の兄・細川元常の元です。
ちょっとここら辺の話は当時の情勢も踏まえて真面目に話し出すと
長くなるので細かい説明は省きますが、
藤孝は、1538年に当時の室町幕府第12代将軍・足利義晴の意向で
細川元常の養子となります。
しかし細川元常にはもともと2人の男児元春と晴貞がいました。
元春は庶子正室ではない女性の子供)だったために
跡継ぎにはなれず分家しています。
じゃあ晴貞はどうしたのかというと、細川管領家の後継者争いの過程で
1550年頃から生死不明となっています。
そのためか、細川元常が1554年に亡くなると養子となっていた藤孝が
細川家の跡を継ぐことになったのです。
ちなみに「藤孝」の名は、1546年に室町幕府第13代将軍足利義藤(後の義輝)の
偏諱を受けてから名乗っています。

1.1 藤孝は文武両道の代名詞

細川藤孝といえば、なんでもこなした超一流の人です。
どれだけ凄い人だったかは以下を見れば一目瞭然。

  • 剣術は後世に剣聖と謳われた塚原卜伝に学んだ、
  • 吉田流弓術印可吉田重勝から授かった
  • 武田流弓馬故実武田信豊から相伝された
  • 和歌、茶道、連歌、蹴鞠など文芸はなんでもできた
  • 囲碁、料理、猿楽(能のこと)も得意だった
  • 牛の角を掴んで投げ倒せるぐらい筋力があった
  • もちろん泳ぐのも得意
  • 当時では唯一の古今伝授の伝承者
  • これだけいろんなことが出来る人だから弟子も沢山いたみたい

ここで一応古今伝授について引用を張り付けておきます。

古今伝授(こきんでんじゅ)または古今伝受とは、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたもの。狭義では東常縁から宗祇に伝えられ、以降相伝されたものを指す[1]。
引用元:Wikipedia

当時は三条西家が一子相伝で代々伝えていたのですが、まだ子供が幼かった
三條西実枝(さんじょうにしさねき)は、
後々子供に伝承することを約束として藤孝に伝授したそうです。
名の知れた秀才だからこそ選ばれたのでしょうね!

あと料理が得意なのもなんか好印象です(笑)
しかし不得手なものは何もなかったんですかね。
何か1個ぐらいダメなものがあっても罰は当たらないと思うんですが(笑)

1.2 細川家を継いだ藤孝の苦難

藤孝は幕臣として当時の将軍足利義輝に仕えていました。

tsukumogatari.hatenablog.com

しかしこの頃の畿内は、細川管領家の後継争いに乗じて台頭してきた
三好長慶(みよしながよし)支配下にあり、
長慶は将軍家とも管領家とも度々対立していました。
当時の大名の中でも三好長慶は最大の勢力をもっており
その支配力は『日本の副王』と呼ばれるほどす。
実質天下を握っていたといっても過言ではないでしょう。
また細川管領家の後継争いは、分家も巻き込んだ争いであり、
特に細川藤孝の継いだ和泉上守護家は負けた側であったため
元々支配領域であった和泉半国の支配権も実質失ったと言われています。

三好家最大勢力を築き上げた三好長慶は、
1564年に病死してしまうのですが、
その後も若年である養嗣子・義継(三好長慶の弟・十河一存の子)
梟雄として名高い松永久秀
三好三人衆(三好宗渭三好長逸岩成友通の3人)たちが
後見役となることで三好政権は維持されます。
そして翌年1565年に、藤孝にとって大きな転機となる事件が起きます。

室町幕府第13代将軍足利義輝
三好義継、三好三人衆、松永久通(松永久秀の嫡男)
によって殺害されてしまったのです。(永禄の変
さらに、義輝の弟の覚慶(後の第15代将軍となる足利義昭)を興福寺に幽閉、
もう一人の弟の周暠(しゅうこう)を殺害し、
義輝の従兄弟・足利義親(後の義栄・一度も京に入らなかった室町幕府第14代将軍)を
傀儡的将軍として擁立するのです。

ちなみに、この時の足利義輝の戦い様が有名なんですが、それはまた別の機会に。
あとついでに余談なんですが
この年代頃ぐらいまでの三好家に関わる話も非常に濃いです。
大河ドラマやってもいいんじゃないかと思うぐらい(笑)
三好長慶を始めとして三好家の人々もそのうち紹介していきたいと思っています。

1.3 覚慶の奪還と流浪生活

藤孝は室町幕府再興のために、兄・藤英や
御供衆の一色藤長(いっしきふじなが)
幕臣和田惟政(わだこれまさ)らと協力して
興福寺に幽閉されている義輝の弟・覚慶を救出します。
ちなみに覚慶は、救出された翌年の1566年に還俗し、
足利義秋と名乗っています。
さらに1568年によく知られている方の「義昭」を名乗ります。
便宜上、ここからは足利義昭で統一させていただきます。

義昭を救出した藤孝は室町幕府再興と義昭の将軍任官のために
近江の六角義賢(ろっかくよしかた)
若狭の武田義統(たけだよしずみ)

越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)らを頼って
奔走の日々が始まります。
しかし本領を失くした流浪暮らし
この頃は本当にお金がなくて、照明用の油も買えず
神社からパクったという罰当たりな(笑)話が残っているほどです。
明智光秀と出会ったのはちょうどこんな貧困にあえいでいた頃。
同じく貧しい暮らしをしていた光秀とは、
貧困自慢話で盛り上がって仲良くなったのかも(笑)

1.4 明智光秀との協力の元、将軍家再興を果たす

朝倉義景を頼って越前に向かった足利義昭および細川藤孝の一向でしたが
当時、義景は一向一揆に苦しんでいたこともあり、
早々に上洛をできるような状況ではありませんでした。
そこで義景の元で仕えていた明智光秀より、
織田信長を頼ることを提案されます。
当時の信長は尾張と美濃を平定し破竹の勢いを見せており、
室町幕府再興を込めた天下布武の朱印も使用し始めていました。
藤孝は、明智光秀仲介の元、織田信長足利義昭を引き合わせることに成功し
1568年9月に信長は義昭を奉じて上洛を開始
それからわずか1か月ほどで入京を果たし、
10月には三好三人衆を追い出し、
義昭の第14代将軍宣下が実現するのです。

1.5 足利義昭から織田信長への鞍替え

信長によって将軍になれた義昭ですが、
次第に信長との仲が悪くなっていきます
一方、細川藤孝はというと義昭を将軍にするため奔走したわりには
意外とあっさり信長側につきます。
貧しい流浪生活の際中にもしかすると義昭の嫌な面を散々見てしまっていたのかも?(笑)
まぁでも、信長の器量を見込んでのことなんだろうと思います。
上洛までの戦いぶりやその行動の速さなど、天下人としての器を感じた可能性はあります。
後々の細川家の動向を見ていると、常に天下に近い人間に付き従ってますから
そういった慧眼に優れていたのかもしれません。
義昭が信長を裏切ろうとしていることがわかったときも、
藤孝は密かに信長に伝えていました
そんな経緯もあってか、足利義昭追放後は
信長の家臣として山城国長岡一帯の知行をもらい、
名字も細川から「長岡」に改めています。
以後、信長の家臣として畿内各地を転戦。
明智光秀の与力として丹波平定戦でも活躍しています。
この頃、信長の薦めもあって、嫡男・細川忠興(ほそかわただおき)
明智光秀の三女・珠(のちのガラシャの婚姻が成立しています。(1578年)
1580年には明智光秀の加勢してもらって丹後南部を平定していますし、
明智家と細川家は切っても切れない縁を築いていたように見えるのですが・・・。

ちなみに丹後の加佐郡与謝郡の領有を信長に認められた藤孝は、
京都に近い交通の要所であった加佐郡八田に
田辺城(別名・舞鶴城)を築いて新たな拠点としました。
この田辺城、後々細川藤孝の凄さを物語る舞台の場となりますので
覚えておいてくださいね。

1.6 そして敵は本能寺にあり

1582年明智光秀が本能寺にて織田信長を倒し、
嫡男・信忠も二条城の戦いで討死します。
信長の重臣たちは京都から離れた地での
戦闘もしくは戦の準備中がほとんどであっため、
畿内の諸将を一刻も早く光秀の味方に引き入れて
有利な状況をつくっておきたかったのでしょう。
そして藤孝と光秀は貧しい時代から幕府再興のために奔走した旧知の仲
子供同士は結婚もしており、深い繋がりをもった両家です。
光秀は当然助力してくれるものと最初から見込んでいたのかもしれません。
しかし、藤孝は光秀からの再三の協力要請を断ります。
この時光秀は
味方になって助力してくれたら
摂津、もしくは但馬・若狭

いや、ほかにもほしいものがあれば
何でもやるよ!

と、なりふり構わず誘ったんですけど
藤孝は
信長さまの死に
哀悼の意を表して出家して

幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と号します。
隠居して家督は息子の忠興に譲るから
あとは息子によろしくどうぞ
といって一線から退いてしまいます。
ちなみに息子の忠興も光秀の味方にはつきませんでした。
細川家の助力を得られなかったことを始めとして
畿内の諸将をひとつにまとめ上げられなかった光秀は
羽柴秀吉山崎の戦いで敗れて亡くなってしまいます。

一説では、元々藤孝の家臣であった光秀の下に就くことを
良しとしなかったという話もあります。
また、藤孝の兄・三淵藤英が光秀の居城である坂本城
自害させられたことを恨んでいたという説もあります。
でもどうなんでしょう。
藤孝は幕臣でありながら足利義昭ではなく最終的に織田信長を選んだ人です。
明智光秀に、天下人としての素養を感じていたのであれば
味方になったのではないでしょうか。
畿内をまとめ上げるのに苦労していた光秀よりも、
中国地方の怪物・毛利家との戦いから一転、
休戦協定を結んで瞬く間にに引き返し、

返す刀で織田信長の三男・織田信孝
織田家重臣丹羽長秀池田恒興らを畿内の武将を味方につけてしまった
羽柴秀吉の方にその才を感じたのではないでしょうか。

ちなみに藤孝はその後羽柴秀吉にも重用されます。
1585年の紀州征伐(雑賀衆根来衆との戦い)や
1587年の九州征伐(島津家との戦い)にも参戦しています。
前述のとおり、当時一流の文化人でもありますから
そういった面でも秀吉には厚遇されたようです。

1.7 秀吉亡き後は家康に、そして関ケ原の合戦

細川藤孝・忠興父子は、秀吉亡き後は共に徳川家康に接近します。
息子の忠興は、1600年7月に関ヶ原の戦いの前哨戦となる会津征伐に
兵を引き連れて参陣し、そのまま東軍勢として関ケ原向かいます。
藤孝は三男・細川幸隆と共に田辺城を守っていました
兵力は500にも満たなかったそうです。
そんな田辺城を西軍の小野木重次と前田勝茂の軍勢1万5千が包囲します。
15,000vs500って、兵力30倍差!!!
こんなの普通勝てるわけがありません、即降伏してもいいぐらいですよね?
ところが藤孝を大将とする田辺城の兵士たちは
戦意が落ちるどころか戦う気満々

なんと約50日もの籠城戦を乗り切るのです。
しかも、もしかすると第3者からの止めが入らなければ
まだまだ耐えていたかもしれません。
この長期戦にもっていけた理由はどうやら細川藤孝自身にあったようです。
田辺城を包囲する兵士たちの中には
藤孝の歌道の弟子が数多くいたそうです。
そのため、敬愛する師匠を攻撃するのは気が引けるということで
戦争する気になかなかなれなかったのだとか。
主君と師匠どちらをとるかの鬩ぎあいで
師匠をとった人が多かったということですね(笑)
でもそれだけ細川藤孝には人望があったのだと思います。

さてところで、第3者が止めに入ったと言いました。
これについて詳しく、というか田辺城の籠城戦はここが本題です。
細川藤孝圧倒的不利な状況を知って慌てふためいた人たちがいます。
それは朝廷の人たちです。
最初に藤孝の凄さを語る中で言いました。
藤孝は当時唯一の古今伝授の伝承者であると。
藤孝が死んでしまったら大事な大事な古今伝授が途絶えてしまう。
これはなんとかして戦をとめないと!
ということで、藤孝の弟子の一人であった
八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)
講和に向け動きます。
しかし、藤孝は断って籠城戦にこだわります。2回も。
到底勝つとは思えないような戦力差なのになぜだ(笑)
いやしかし、これが細川藤孝の武士としての心意気なのかもしれないし
だからこそ、田辺城の兵士たちも戦意高揚しまくりで
徹底抗戦できていたのやもしれませんね。
あとは息子・忠興正室ガラシャが自害したこと
影響あるかも
しれません。
田辺城が包囲される前に、西軍・石田三成ガラシャを人質にとるため
大坂玉造の細川屋敷を包囲しますが、その強硬手段が裏目に出て
家臣の介錯の元、ガラシャは死んでしまうのです。
西軍側のそういった非道なやり方に憤りを感じて
負け戦だろうが戦わないわけにはいかない
そんな気持ちだったのかもしれませんね。

ちなみに藤孝はこんな感じで断りました。(かなり意訳w)
もはや戦って死ぬ覚悟もできているんです、
ごめんなさい。

古今伝授のことなら
もうだいたい弟子に教えてあります。

まだちょっと教えてないのあるけど、
残りの部分は今から覚書にして渡すから
読むよう
に伝えて。

それをもって古今伝授の伝承完了
ということでお願します。

まったく講和する気が無かったのでしょう(笑)
藤孝の覚悟はわかっても、覚書で伝授されたとしても(笑)、
稀代の教養文化人藤孝を
やはり死なせるわけにはいかないと思ったのでしょう。
八条宮智仁親王最大奥義を使います。
八条宮智仁親王お兄さんは、第107代天皇後陽成天皇です。
つまり最大奥義とは天皇の勅命による講和です。
さすがの藤孝もこれには逆らえなかったようで
しぶしぶ(?)講和を結んだのが関ケ原の戦い2日前の9月13日。
そして9月18日に田辺城を明け渡し
9月19日に敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入ったそうです。
死なせまいと天皇までも動くほどの人物は細川藤孝ぐらい!?

ちなみに、田辺城を囲んでいた1万5千の軍勢は
田辺城を早々に落としていれば関ヶ原の合戦に間に合ったはず。
間に合っていたとしたら戦局が大きく変わっていた可能性もあります。
となると、この軍勢を田辺城で2か月も足止めしていた
藤孝の功績はとても大きいですね。
もしかしたらすべてを計算に入れてのことだったのかも!?

1.8 藤孝の晩年

関ケ原の合戦の戦功によって、
細川家は豊前小倉藩39万9千石の大大名へと出世します。
一時は所領も失い買うお金がないから油を神社からくすねていたことも
もはや笑い話として語り継いでいたかもしれませんね(笑)
名乗っていた長岡姓も細川姓に戻し、
長岡姓は以後細川別姓として一門や重臣に授けたそうです。
藤孝自身はというと、京都で風流な生活を悠々自適に送ったそうです。
奥さんとも仲が良かったそうで、
藤孝は一度も側室を娶ることはなかったそうですよ。
夫婦仲の良さは明智光秀とも共通していますね。
享年77歳。縁起がいい数字なのがまたいい(笑)
ちなみに藤孝は歌もたくさん残していますが、
以下に示すような著作もたくさんあります。
口伝だけじゃなく、自ら形として残しているものもあるからこそ
藤孝の一流さが後世にも伝わっていったのでしょう。


2.「麒麟がくる」での細川藤孝は?

前述のとおり、藤孝を演じるのは俳優の眞島秀和さんです。
以前の大河ドラマでいうと
天地人」では羽柴秀次、「軍師官兵衛」では顕如を演じています。
なんとなくぼんやり覚えています(笑)
藤孝は光秀が朝倉家に仕えていたころから
頻繁に登場することになると思います。
将軍義昭の擁立から始まり、その後藤孝が織田家臣となってからも
光秀の与力となって丹波や丹後での戦を共にしていたりしますから
中盤以降の主要キャストになることは間違いないと思います。
個人的に気になるのは、
光秀と藤孝の関係性がどのように描かれるのか
というところです。
これは後々の本能寺の変近辺での動向に関わって来るので注目しています。
残念なのは、光秀が主人公のために
関ヶ原の戦いまで話が行く前に終わってしまうことですね(笑)
田辺城の戦い細川藤孝の人物像を如実に物語る恰好の話なんですが、
藤孝が主人公にならないと、
なかなかそこまで見せ場を作ってくれなさそうですが(笑)

3.まとめ

今回は戦国時代一の教養人であり、
光秀とも古くから親交のあって親戚でもある
細川藤孝について長々と書いてきました。
さすがに少し有名な人になると、情報量が増えるので
ボリュームアップしちゃいます。
まぁそれはそれでいいかなと思いつつ、
最後まで読んでもらえるかどうかの不安もありつつ(笑)
ちなみに、紹介する隙間がなかったので
ここで信長の野望・創造 戦国立志伝での藤孝の能力値をご紹介。

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総合的には今まで紹介した中でトップです。
なんとなくもうちょっと武勇・統率は上でもいいんじゃないかなぁ
とは思うんですけどね。
あとゲーム内に教養人としての活躍の場がないので
今後はそういう要素も入れてもらえると
藤孝だけじゃなくて
例えば茶の湯で大成した千利休みたいな文化的要素の強い武将でも
遊び甲斐があっていいんですが(笑)
あと、そのうちブログで私が考える信長の野望のゲームシステムを
紹介しようかなとも思っています。
超独断と偏見によるものですが(笑)

企画書にしてコーエーテクモさんに出したら作ってくれないかな(笑)

では今回はこの辺で。
大変長い記事を最後まで読んで頂きありがとうございました!