「麒麟がくる」第30話は朝倉討伐の是非よりも三淵藤英受難の回

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「麒麟がくる」第30話は朝倉討伐の是非よりも三淵藤英受難の回
NHK大河ドラマ麒麟がくる」で学ぶシリーズの
麒麟で学ぶ」
第30回目です。
今回の記事を読むと以下の事がわかります。

  1. 公事根源
  2. 芳仁丸と正露丸の関係←
  3. 天下静謐の意味
  4. 若狭の武藤なにがし
  5. 信長さまの伊勢侵攻
  6. 伊勢神宮の重要性←
何かツッコミたい事があっても
それは本記事を読んでからにしてくださいね(笑)

さて本シリーズの前提事項的なものを
毎回0章に記載していますので、
初めて本シリーズの記事を読む方は
さらっと一読していただけると
助かります。
既に読んだことのある方は
読み飛ばして頂いてかまいません。

また前提の一番最初に記載していますが
本シリーズは「麒麟がくる」の
ネタバレを含みます
当日の放送や再放送も見逃して
まだ視聴されていない方は
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオ
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
見逃し分を視聴できます。
こちらで視聴した上で本記事を読まれると
いいかもしれません。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。

※本記事掲載のAmazonプライムビデオおよびU-NEXT配信情報は、2021年3月31日時点のものです。
最新情報については各サイトにてご確認ください。

しかしネタバレ含んでいるけど、
本記事を読んでから視聴すると
少し前提知識が入った上での視聴になるので
それはそれでいいのかもしれませんけどね。

そして「麒麟で学ぶ」の過去分については
こちらからどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

では今回のお品書きはこちらになります。

ちなみに2019年12月15日から更新中の
麒麟がくる」公式サイト公式Twitterもブックマーク、フォローしておくと
より一層「麒麟がくる」を楽しめると思いますので
まだの方は是非とも。
→2021年3月31日をもって公式サイト・TwitterInstagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!

0.本記事を読むにあたっての前提など

1.「麒麟がくる」第30話「朝倉義景を討て」からの学び

帝からの勅命を聞いて驚いたような様子を浮かべる明智十兵衛光秀
まずは全体の感想から。
十兵衛は朝倉義景討伐に
あんまり乗り気じゃないのかなぁと
思っていたけどそうでもなかったようで。
気に入らない領主ではあっても
長くお世話になった人だし
そもそも朝倉義景を討つことに
正しさも感じていないのでは
なんて考えていたんだけどな~w
本能寺の変を気にしすぎるあまり
下手な詮索をしてしまった気がします。

そして今回なんだか不憫だったのは
三淵藤英ですね。
十兵衛には内緒だった朝倉阿君丸の毒殺、
主犯だったことを摂津晴門にバラされるというw
朝倉義景の嫡男・阿君丸毒殺の仕掛け人であることを摂津晴門にバラされた三淵藤英
ここでその話持ちださなくてもいいじゃないか
と内心思ってるような表情だったような!?
でも、織田信長派の十兵衛を黙らせるには
手っ取り早い方法だったのかも。
それに三淵藤英についた(?)悪いイメージを
全部摂津晴門が請け負ってくれてる気がして
そういう意味ではいいやつじゃないか!
とか思ったりもしちゃいました(笑)
あの憎たらしい口調や表情の摂津晴門
演じている片岡鶴太郎さんは
間違いなく名優ですね~。
麒麟がくる」の摂津晴門は嫌いだけど
片岡鶴太郎さんの演技は大好きですw

それにしても「麒麟がくる」の架空人物3人組。
あの3人、ちょっと偉すぎる人たちと
繋がりすぎなのでは!?
望月東庵先生は帝の正親町天皇
伊呂波大夫は前関白の近衛前久
そして駒は現将軍の足利義昭
とりわけ望月東庵先生が帝と囲碁を打つ場面
本当に必要だったんだろうか・・・(笑)

といったところでそろそろ本題へ。

ちなみに第30話の公式サイトのトリセツ
こちらです。
今回は朝倉討伐を巡る人物関係図ですね。
でも帝からの勅命が「若狭の武藤を討つべし」
て書いてあるけど、名指しの勅命だったの?w

→2021年3月31日をもって公式サイト・TwitterInstagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!

登場人物の年齢のおさらい

三好長慶と松永久秀を守る明智光秀、三淵藤英、細川藤孝

まずは主な登場人物たちの年齢確認を。
今回は永禄12年(1569年)夏スタート
というわけで年齢は前回のまま据え置き。

追加した人物は赤字にしています。
また前回の話の中で亡くなった
と判明した人物に関しては
こちらの一覧からは削除して
後述の亡くなった人を弔う章に
引き続き掲載する形にしています。

ちなみに生年不明な人とか
年齢設定不明な人以外の生年については
Wikipediaをベースにしています。
あと基本的に全員数え年の年齢です。

1.1.美濃への旅路からの学び

徒然草吾妻鏡に公事根源
十兵衛が旅の支度で携えていた書物は公事根源、吾妻鏡、徒然草?
信長さまにお呼ばれして岐阜へいくことになり
旅の支度を左馬助にしてもらってる十兵衛。
左馬助、後の明智秀満だけど
すっかり十兵衛の腹心的扱いになってます。
十兵衛が京を離れる間もその代わりの務めを
任されているのでしょう。

さて、十兵衛が旅のお供に持っていくものの中に
書物がありました。
タイトルを見た感じだと
徒然草』、『吾妻鏡』、そして『公事根源』
だったのかな?
吾妻鏡』は十兵衛よく読んでるイメージが
ありますね。
徒然草』はタイトルが全部見えなかったけど
「つれ」ぐらいまで見えてたから
そうなのかな?と。
といっても私は文学的なことは非常に疎いので
正しさは怪しいですね(笑)

ところで『公事根源』ってなんだろうと思ったら

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
『公事根源抄』ともいう。朝廷の年中行事を 12ヵ月に分けて,それぞれの由来を解説した書。1巻。一条兼良の撰。応永 29 (1422) 年成立。現存しない行事や,これを通しての民俗信仰をうかがいうる好史料。『日本文学全書』『新註皇学叢書』『日本古典全集』『増訂故実叢書』所収。

デジタル大辞泉の解説
室町中期の有職故実書。1巻。一条兼良(いちじょうかねら)著。応永30年(1423)ころ成立。宮中における一年間の公事や儀式の起源・沿革を述べたもの。

引用:コトバンク

朝廷の年中行事や儀式の説明が書かれていて
言うなれば教本みたいな感じなんですかね。
こうやって日々書物を読みながら知識を得て
大事に備えているんだろうなぁ十兵衛は。
十兵衛の読書量はきっと私を優に超えているw

十兵衛の美濃旅行は8日間
十兵衛の美濃への旅は8日間、その間京の留守を任される明智左馬助
十兵衛の美濃への旅路は
左馬助との話から8日間のようです。

以前、信長さまが京から美濃へは
2日で来れると言ってましたよね。
その時にも書いたんですが
tsukumogatari.hatenablog.com
通常は3日間であるところを
信長さまは足利義昭が本国寺で襲われた際に
2日間で到着したので
信長さまの中では2日間の旅程ですw

まぁでも今回の十兵衛の旅路は
急いで来るように言われたわけでもないので
一般的な片道3日間の行程だとすると
往復で6日間かかるから
美濃への滞在は実質2日間程度。
今の世の中だったら1時間ぐらいなので
ほぼ丸々8日間美濃を満喫できるのに(笑)
十兵衛は遊びに行くわけじゃなくて
いわば出張ではあるけれども
久々に煕子や娘たちとも会えるだろうから
出来るだけ長く居たいんだろうけどなぁ。
十兵衛に現代の新幹線を見せてあげたい(笑)

芳仁丸は見た目が正露丸
もはや恋人同士のような足利義昭と駒
駒と足利義昭が万能薬を通じて意気投合。
なにやら恋に発展するのか?でも足利義昭
そのうち・・・いやそれはさておき
万能薬の名前が調合方法を教えてくれた
芳仁にあやかって『芳仁丸』と名付けた様です。
ところでこの芳仁丸については
以前こちらの記事でういろうをモチーフにした?
みたいな臆測を書きました(笑)
tsukumogatari.hatenablog.com
芳仁丸自体は架空の薬みたいだけど
それでもやっぱ何かモデルにしたんじゃないの?
と思って勝手に予想で書いてはみたいんですが
芳仁丸、最初よりどんどん小さくなって
見た目が正露丸に見たいになってません??
これはもしや、正露丸のルーツが芳仁丸!?
とか思いだして大正製薬の公式サイトとか
Wikipediaを見てみたけど
そうでもないらしい(笑)
まぁ正露丸はお腹の調子を良くする薬で
芳仁丸みたいな万能薬的な効能は無いから
やっぱ芳仁丸は麻薬のたぐ(ry

というわけで芳仁丸のモデル的な薬を募集中w

奇妙丸以外の子たちが行方不明
十兵衛を待っていたのは織田信長の嫡男・奇妙丸だった!?
朝倉討伐の件で信長さまに呼ばれた十兵衛。
信長さまがお呼びとのことで通された場所には
大きくなった奇妙丸が。
そこはそなたの座る場所ではない
と窘める帰蝶さまの久々の登場もあったりして
瞬間視聴率が爆上がりしたかもしれない瞬間。
それはそれとして、奇妙丸、後の織田信忠
数えで13歳。元服したのはもう少し先で
17歳~19歳辺りではないかと言われています。
奇妙丸も本能寺の変で必須の登場人物ですから
今後も何かと十兵衛と絡みがあるのかも。

しかし相変わらず信長さまの他の子たちは
一向に出てくる気配がありません。
これが信長さまの物語であれば
この時期に次男の茶筅丸、後の織田信雄
三七、後の織田信孝も出てくるのでしょうが。
織田信雄織田信孝も後述する
伊勢侵攻に大いに関わってきます。

織田信雄は永禄12年(1569年)、
要するにちょうど「麒麟がくる」での「今頃」に
伊勢の国司・北畠具教との和睦の条件として
北畠具教の娘を娶っています。
後に元亀3年(1572年)に元服した際には
北畠具豊と名乗り、天正3年(1575年)には
北畠家家督も継いでいます。

織田信孝の方も永禄11年(1568年)に
伊勢の神戸具盛の養嗣子となっており
後には神戸三七郎と名乗り
元亀2年(1571年)に神戸家を継いでいます。
いずれも伊勢を治めるための政略結婚です。
織田信孝に関しては後に四国攻めの大将として
信長さまに任命されるんですが
本能寺の変が起きたために
四国攻め自体が無くなってしまいます。

織田信雄織田信孝
本能寺の変からの動きに違いはあれど
十兵衛と大いに関わってくるので
流石にその頃には出てくるのかなぁ。
麒麟がくる」は元々話数が減ってるので
ストーリー上あまり重要ではない人物や
出来事が飛ばされてしまうのは
残念だけど仕方のないところですね。

1.2.大義名分からの学び

荒れ果てた御所を修繕した信長さま
織田信長が命じて綺麗に修繕された御所の塀を眺める明智十兵衛光秀
朝倉征伐か否か。
そんな話の折、十兵衛の話から
京の御所の塀と南の御門が
信長さまの命で修繕された事がわかりました。
この信長さまの修繕の話は
前回、前々回から記事でも少し触れてますが
今回初めて読む人もいるかもしれないので
今回もしつこく書いていきます(笑)
ただいつもより詳しめ?

信長さまが御所を修繕した話は
信長公記』にも記載があります。
内裏の荒廃が甚だかったために
担当奉行を朝山日乗村井貞勝に任命します。
この修繕がいつから始まったことなのかは
具体的な年月の記載はないので不明なんですが
少なくとも足利義昭を奉じて上洛してからで
足利義昭が本国寺で襲われた後の話に
書かれていることから考えると
やはりちょうど今の「麒麟がくる」の頃か。
そしてその内裏の修繕の完了も触れられていて
それが3年ほどかかったとあります。
紫宸殿、清涼殿、内侍所、照陽舎などなど
全ての建物の後事を完了したそうです。

十兵衛が確認した時点では
まだ外側から見える塀や御門のみでしたが
内部の諸々の建物も信長さまによって
後々綺麗に修繕されることになるのです。

尊い仏は誰から仏の道を教わったのか
道に迷った時は空より降ってきた者より道を聞いてみたいという明智十兵衛光秀
尊い仏は一体誰から仏の道を学んだのか
という8歳の子供の問いかけの話、
あの話の出典は何なのでしょうか。
そこが気になりつつも
この話の後に十兵衛が言っていたことが
ちょっと印象に残っています。

何かに迷った時、空より降ってきた者から
道を聞いてみたい。

これってもしかして本能寺の変を起こす際にも
十兵衛は迷ってなかなか答えが出せず
天からの声を聞こうとする場面がある!?
十兵衛が天啓に頼ろうとした逸話として
愛宕神社で意中のくじが出るまで
3回おみくじを引いた話は有名ですが
この逸話の回収があることも予感させる(笑)
ちなみに、3度おみくじを引いて
その中で異なる一つを神意として占う方法は
当時一般的だったらしいですね。

さて、この仏の道の話では
もう一つ思い出すことが。
それは亡き斎藤道三さまの言葉
道三さまが、息子・高政に対して
挙兵すべきかどうか迷った時に
仏に道を尋ねたけれども
何も答えてはくださらなかった
当てにならぬお方じゃ

みたいなことを十兵衛に話していました。
仏から道を示してもらえなかった道三さまは
息子・高政との戦で敗れて討たれてしまった。
果たして、十兵衛は・・・?
いやこれまだ先の話だけどw

帝に拝謁して褒められた信長さま
正親町天皇に東西一の武将と褒め称えられてご満悦な織田信長
麒麟がくる」の信長さまは
人から褒められると弱い
以前、まわりが褒めてくれるから戦が好き
と嬉しそうに十兵衛に話していましたよね。
元々、弟の信勝とは対照的に
母からの寵愛を受けられず
褒められることが叶わなかった信長さま。
褒めてくれる人なら
誰でも気を許してしまいそうで
少し危なっかしい気もしますw

そんな信長さまを今回褒めちぎったのは
時の天皇陛下正親町天皇です。
正親町天皇『当代一の武将』
褒めてもらったと喜んでいましたが
正親町天皇にお褒めの言葉を頂いたのは
実はもっと前の出来事だったりします。

それは信長さまが斎藤龍興を美濃から追い出し
美濃を事実上統一した永禄10年(1567年)の事。
この年の11月9日に帝より「古今無双の名将」
と褒め称えられています。
でもこれ正親町天皇が御料所の回復や
嫡男・誠仁親王元服費用の催促ついでだから
持ち上げてお金をせびろうとしただけ!?
と言ったら帝に大変失礼ですよねw
実際、応仁の乱によって荒れ果てた京では
朝廷も資金繰りが難しい状況になっていて
帝の領地も多く失地していたそうですから
勢いのある武将に近づいて手助けしてもらおう
というのは当然でしょうしね。

ちなみに信長さまは正親町天皇とは
蘭奢待の件で後々揉めたりしますよね。
その辺の話は「麒麟がくる」だと
どう扱うのかな。

天下静謐とは
天下静謐のために尽くすべしと帝に言われたという織田信長
天下静謐のためならば戦も止むを得ない
と帝に言われたという信長さま。
これを持って朝倉討伐の勅命が下りた
と喜ぶ信長さまでしたが・・・
なんかちょっと拡大解釈してないか?
と思わなくもないけど
実際はもっと深い話があったかもだし
偉い人同士の会話って
世の中こんなものかもしれないしw

ところで天下静謐という言葉は
親しみのある言葉でしょうか?
多分この辺の時代を好きな人じゃないと
馴染みのない言葉なのではないかと。
天下静謐の言葉の意味は
帝からのお言葉の中に少しヒントがあって

『この都、畿内を平らかにすべし。
そのための戦ならばやむなし』

つまり、天下静謐とは畿内の平和、安定化
指しています。

ところで信長さまといえば同じく天下と名の付く
天下布武の朱印を使っていたことは
有名じゃないでしょうか。
使い始めたのが美濃を統一してから
と言われていますが
この「天下布武」の意味、
「武を以て天下を制する」ってことなんですが
実はこれ、天下静謐と同じ意味なんです。
「天下静謐」の意味からわかるように
この「天下」の意味ってあくまでも
京と畿内の平定なんですよね。
信長の野望みたいなゲームやってると
信長さまって全国統一を目指してたんだなぁ
天下統一って全国統一のことなんだなぁ

って刷り込まれがちなんですけど違います(笑)
※私は実際そう刷り込まれていたw

信長さまが目指していたのはあくまでも
京や畿内の安定化であって
だからこそ信長さまは仲違いした足利義昭
京から出て行っても
自らが将軍職に就くことは無く
将軍職はそのままにしていたのでしょう。

同じ言葉であっても時代や環境に応じて
言葉って意味合いが変わってきますよね。
自社で使う用語とお客さんが使う用語の
意味や言葉が違ったりとか・・・(笑)
「天下」という言葉一つとっても
それは何を意味するのかというのを
きちんと捉えないと解釈を間違えて
大恥をかくことになるやもしれません。
お互い気を付けましょうw

1.3.朝倉征伐からの学び

若狭の武藤なにがしの成敗
朝倉攻めは幕府は協力できないという摂津晴門と三淵藤英
若狭の武藤なにがし武藤なにがしって
うるさいんじゃー摂津晴門
武藤なにがしじゃなくて
武藤友益だよ!

と「麒麟がくる」を見ながら
当の本人はツッコミをいれていたかも(笑)

そうです、若狭の武藤なにがしとは
若狭武田氏の家臣、武藤友益のことです。
武田四老の一人に数えらえる重臣です。
信長の野望・創造 戦国立志伝の武藤友益

あれ?でもおかしいです・・・
若狭武田氏の家臣の討伐が
なぜ朝倉討伐ってことに?

若狭武田氏っていうとその昔は
応仁の乱での活躍目覚ましく
室町幕府の信頼も厚いお家柄でしたが
麒麟がくる」の頃の時代になると
国人衆たちとの対立もあって
その勢いも衰えてしまいます。
そして越前朝倉氏の侵攻によって
永禄11年(1568年)にはその支配下に入り
当主である若狭武田氏当主の武田元明
一城谷に強制的に移住させられたそうです。
信長の野望・創造 戦国立志伝の武田元明
強制移住とはまだ聞こえがいい方で
言い方を変えれば軟禁です。
なので、従属という形はとりつつも
実質的には若狭は越前朝倉氏の支配下でした。

そんな若狭武田氏の家臣、武藤友益は
一乗谷で軟禁中の武田元明からの命で
侵攻してくる織田軍と戦ったそうですが
若狭武田氏の家臣全てが朝倉氏に
従っていたわけでもなかったようで。
友益と同じく武田四老の粟屋勝久、熊谷直之や
信長の野望・創造 戦国立志伝の粟屋勝久
武田氏庶流の逸見昌経などは
信長の野望・創造 戦国立志伝の逸見昌経
信長さまに従って
朝倉攻めの先陣を務めていたりします。


麒麟がくる」では若狭武田氏が
完全に空気になってるんですけど
三好長慶政権下でも若狭では
ゴタゴタが起きてたりするし
そこには松永久秀の弟・松永長頼が
絡んできたりもするし
三好長慶が主人公になると
活躍の場(?)があるかもしれません。

三淵藤英と十兵衛の関係
阿君丸毒殺の件をバラされて少しばつが悪そうな三淵藤英
三淵藤英が阿君丸毒殺の主犯だった!
知ってたけどw
十兵衛は視聴者じゃないし
山崎吉家、朝倉景鏡らとの密談にも
当然呼ばれてないので驚いたことでしょう。
おそらく三淵藤英の弟・細川藤孝
知らなかったのではないかと。

十兵衛の親友っていうと
真っ先に名が挙がるのが弟の細川藤孝だし
細川藤孝自体が当時の天才的扱いなので(笑)、
三淵藤英はちょっとその陰に隠れがち。
ただ三淵藤英は常に幕府、将軍家の側に立って
行動していたことは間違いなく
それがこの先、十兵衛や弟の細川藤孝とは
一度袂を分かつことになるんですが・・・。
その最期まで十兵衛と深く関わる人物なので
麒麟がくる」でも主要な人物として
描かれているのでしょうね。

妙覚寺で戦勝祈願
妙覚寺にて出陣の儀式をおこなう織田信長
越前朝倉氏討伐に出陣する織田軍。
京の妙覚寺でおこなっていたのは
戦勝祈願の儀式である三献の儀
神前式の結婚式なら三々九度でお馴染みですね。
三献の儀は元は宮中の儀式だったものが
室町時代から武士の出陣や婚礼などなど
数々の儀式で執り行われるようになりました。

三献の儀で欠かせないものが
打鮑勝栗、そして昆布の3品と3つの盃
戦勝祈願「三献の儀」に必須なアイテム4種類
3品を肴に重ねられた3つの盃で
お酒を三回ずつ
つまり9回飲むのがこの儀式。
細長く切った鮑を干した打鮑は「敵を打つ」
乾燥させた栗の皮をむいた勝栗は「敵に勝つ」
そして昆布は「喜ぶ」といったように
全て縁起物なわけです。
これら縁起物を肴にしながら酒を飲み干して
『敵に打ち勝つことを喜ぶ』
という縁起担ぎなのです。

出陣に関してはこの三献の儀以外にも
様々な縁起担ぎをおこなうのが常で
総大将の鎧の上帯の端を切って
「鎧を脱がない」つまり
「不退転の決意」を示す儀式
おこなったりとか
総大将が城や館を出る際には
包丁の刃を踏み越えて出陣する風習も
あったそうです。
また、和歌を詠む連歌会を開いて
できあがった百句の歌を神社に戦勝祈願として
奉納
することも。
十兵衛が本能寺の直前に開いた連歌会も
戦勝祈願のために詠まれて愛宕神社
その連歌は奉納されたことは有名ですね。

さて、戦勝祈願が行われた妙覚寺
このお寺は信長さまとの関りが深いお寺で
今後も登場することが多い可能性も。
本能寺の変当日に信長さまの嫡男・奇妙丸が
宿舎にしていたお寺でもあります。
変の当日、信長さま自身は
本能寺にて宿泊していましたが
宿泊した回数でいったら妙覚寺での宿泊が
圧倒的に多かったりします。
妙覚寺のサイトにもその辺のことを
トップページに記載しています。
www.meguru-kyoto.com

また妙覚寺斎藤道三さまとの縁も。
道三さまの父・松波庄五郎はこの妙覚寺
得度したと言いますし、道三さまの四男が
妙覚寺第19代住職日饒なんですよね。
そして「麒麟がくる」の序盤に登場した日運、
覚えている人はいるでしょうか。
種子島に鉄砲が渡ってその鉄砲を京で将軍さまが
鍛冶師に作らせている、というのを
道三さまと十兵衛に話したお坊さんのことです。
この日運も道三さまの父・松波庄五郎と同じく
妙覚寺にて修行をした身で
松波庄五郎から見たら2つ年下の弟弟子。
後に、妙覚寺の末寺である美濃の常在寺で
住職となったのです。

この妙覚寺は忘れずに覚えておきましょう。

やはり捨てられた伊勢侵攻

予想通りですが信長さまの伊勢侵攻は
完全にスルーされました。
スルーっていうかもう伊勢っていう国自体が
存在しないのかもしれない?
いや地図には書いてあったような(笑)
というわけで「信長公記」ベースによる
伊勢侵攻をまとめたものが以下。
「侵攻」なので言うまでもなく織田視点です。
また年代は全て永禄12年(1569年)。

  1. 08月20日 織田軍伊勢方面へ出馬。桑名*1まで進軍。
  2. 08月22日 白子観音寺*2に陣を取る。
  3. 08月23日 小作*3に着陣。雨降りのため駐留。
  4. 08月26日 阿坂城*4木下藤吉郎を先陣に攻撃。敵が退去したため滝川一益の軍勢が配備される。
  5. 08月某日 伊勢国司の北畠具教・具房父子の立て籠もる大河内城を攻めるためその東の山に陣を取る。
  6. 08月28日 周囲を下見をした上で城を囲むように東西南北の位置に部隊を布陣。また城周囲の道路を遮断。
  7. 09月08日 稲葉一鉄池田恒興丹羽長秀らに西の搦手から夜攻めを命じる。この日の夜は雨が降っていて鉄砲が役に立たなかったらしい。
  8. 09月09日 滝川一益に命じて多芸*5の谷にある国司の館など周辺の焼き払いをさせる。
  9. 10月03日 北畠氏と和睦。この際、信長の次男・茶筅丸に家督を譲る条件を北畠父子は受諾する。
  10. 10月04日 滝川一益、津田一安が大河内城受け取りに出向く。北畠父子は笠木*6・坂内*7へ退去。
  11. 10月05日 信長さま、伊勢参宮のため山田*8へ出立。堤源介方に宿をとる。
  12. 10月06日 信長さま、内宮・外宮・朝熊山*9に参詣。
  13. 10月07日 小作に宿泊。
  14. 10月08日 上野*10に陣を取り、諸国から参陣した軍勢を撤収させる。
  15. 10月09日 上洛のため千草峠*11まで進軍。この日は大雪だったらしい。
  16. 10月10日 近江の市原*12に宿泊。
  17. 10月11日 上洛。
  18. 10月某日 将軍足利義昭に伊勢平定を報告。
  19. 10月17日 美濃の岐阜城へ帰還。
およそ1カ月半ほどかけて伊勢侵攻を展開し
伊勢の国司であった北畠氏を降しています。
和睦を結んでるけど
家督を信長さまの子に継がせる約束してるので
負けたのと一緒ですよね。
また、「信長公記」には大河内城攻めに参戦した
武将名が数多く記載されています。
麒麟がくる」の登場人物でいうと
柴田勝家佐久間信盛木下藤吉郎はもちろん
稲葉一鉄もそこに名を連ねています。
しかし十兵衛の名前はありません。
やはりこの頃は京で将軍の側近くで
働いていたってことなんでしょうかね。

さてこれによって事実上伊勢を支配下に収めた
信長さまは、田丸城など他の諸城を破壊する
命令も出したそうです。
また、伊勢国内の関所も永久に撤廃しています。
関所の撤廃は京へ上洛した際にも
おこなっていましたね。
あと、ちゃんと将軍に報告をしてる辺りも
信長さまの真面目ぶりが伝わってきます(笑)
伊勢神宮参拝もしてるのがいいですw

ちなみに私は伊勢神宮の話題が出る度に
まだ伊勢神宮へ一度も訪れたことのない人に
訪れることを勧めたくなるbotです(笑)
初めて訪れた時に感じた荘厳さとか
自分自身が大きな時代の流れの中にいる事を
感じられるような不思議な感覚が
今でも忘れられません。
というわけで日本人なら
一度は必ず伊勢神宮へいきましょう!w
www.isejingu.or.jp

元亀への改元は次回
永禄13年(1570年)4月23日に
元号永禄から元亀へと変更となります。
次回の冒頭がどこから始まるのかな
ていうのもあるけど、越前侵攻早々に
改元がなされます。
この改元は以前こちらの記事で書いたんですが
tsukumogatari.hatenablog.com
これより以前に足利義昭改元したかったのを
信長さまに反対されて一度諦めたんですが
信長さまが越前へ朝倉討伐にいってる際中に
こそっと改元しています(笑)
この辺はもしや摂津晴門が暗躍するのか?
あまり触れられずに改元されちゃうかなw

1.4.没した登場人物たち

斎藤道三の亡骸に膝をついて深く礼をする明智十兵衛光秀

こちらは麒麟がくる」で亡くなった人たちを
弔うための章
です。
亡くなった日については
Wikipediaの情報と「麒麟がくる」での情報を
照らし合わせてのものですが
人物によって諸説ありますので
あくまでも参考情報ということでお願いします。

1.5.参考資料

今回記事を書くにあたって主に参考とした書籍や
サイトをこちらでまとめて紹介しておきます。
興味持たれた方はご購入または閲覧してみてくださいね。

戦国 戦(いくさ)の作法

戦国 戦(いくさ)の作法

  • 発売日: 2018/06/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
戦国の忍び (角川新書)

戦国の忍び (角川新書)

正露丸|製品情報|大幸薬品株式会社
正露丸 - Wikipedia
織田信雄 - Wikipedia
織田信孝 - Wikipedia
武藤友益 - Wikipedia
妙覺寺(みょうかくじ) | 【八本山を巡る】 八本山ガイド 妙覺寺や妙顕寺などお寺の歴史やアクセス、イベント情報をお届けします。
妙覚寺 (京都市) - Wikipedia
日運 - Wikipedia

2.あとがき

旅のお供にと藤吉郎が十兵衛に渡したのは妻・ねねが作ったお弁当
麒麟で学ぶ」第30回目はいかがでしたか?
感想、ご意見等あればコメントをお気軽に。

藤吉郎の妻・ねねが十兵衛の旅路にと
作ってくれたお弁当。
きっとあれは藤吉郎がお願いしたんだろうなぁ
美濃行きの真意を聞き出すための道具としてw
聞き出せなくても直接目と目を合わせて
会話すれば何かを感じ取りそうなのが
麒麟がくる」の藤吉郎でしょうか。
抜け目なさ過ぎて本能寺の変が失敗しそう!
藤吉郎には十分気を付けてと念を押したい。
あと、ねねっていうと藤吉郎とセットで
登場しそうだけど
流石に「麒麟がくる」の明智光秀視点では
配役もされない感じなんですかね。
確かに出番は無理矢理作らないと
てとこはあるけれども。

そして久々に登場した煕子さん。
十兵衛から京へ来るかと聞かれて
元気よく「ハイ!」って答えるのが
可愛らしかったですねw
十兵衛の許しが出て嬉しそうな煕子

あ、斎藤利三はそろそろ出てくる気がします。
信長公記」での斎藤利三の初登場は
朝倉攻めの金ヶ崎の退き口後なんですよね。
ここではまだ稲葉一鉄の家臣っぽいですが
次回もしくは次々回ぐらいで登場なるか?

さて冒頭でも述べましたが
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオであれば
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
当日の放送や再放送も見逃してしまったとしても、いつでも視聴可能です。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。

そして「麒麟がくる」をもっと楽しむために
こちらの書籍もおススメですので
ご興味のある方は是非とも。

NHK出版 2019年11月30日


by ヨメレバ

麒麟がくる 前編 (1) (NHK大河ドラマ・ガイド)

麒麟がくる 前編 (1) (NHK大河ドラマ・ガイド)

  • 作者:池端 俊策
  • 発売日: 2020/01/11
  • メディア: ムック
 

麒麟がくる 後編 (2) (NHK大河ドラマ・ガイド)

麒麟がくる 後編 (2) (NHK大河ドラマ・ガイド)

  • 作者:池端 俊策
  • 発売日: 2020/05/21
  • メディア: ムック
 

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」完全読本 (NIKKO MOOK)

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」完全読本 (NIKKO MOOK)

  • 発売日: 2020/01/11
  • メディア: ムック
 

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!


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このINDEXページを基点として頂くと
過去に投稿済みの記事へも
アクセスしやすいです。
こちらから過去記事も読んで頂けると
嬉しいです。

*1:現在の三重県桑名市辺り。

*2:現在の三重県鈴鹿市辺り。

*3:木造、現在の三重県津市辺り。

*4:現在の三重県松阪市辺り

*5:多気、現在の三重県津市あたり。

*6:現在の三重県多気多気町辺り。

*7:現在の三重県松阪市辺り。

*8:現在の三重県伊勢市辺り。

*9:朝熊神社・金剛証寺。

*10:現在の三重県津市辺り。

*11:鈴鹿山脈

*12:現在の滋賀県東近江市辺り。

*13:麒麟がくる」では今の所亡くなったことは語られていない。

*14:麒麟がくる」の場合は長良川の戦いから数日後な気がするけどWikipediaベースで載せてます。

*15:信長の野望ベースなら享年23歳。

*16:麒麟がくる」では亡くなっているかどうかの言及はなく、東庵先生も生死どちらとも取れる感じで話している。

*17:信長の野望ベースなら享年42歳。桶狭間の戦いの前哨戦、丸根砦の戦いで討死しているが「麒麟がくる」では語られていない。

*18:実際に亡くなったのは21話と22話の間の期間だが、19話で既にナレ死してます。。。

*19:信長の野望ベースなら享年30歳。桶狭間の戦いの後、今川家からの自立を目指した松平氏との戦いにて戦死。

*20:麒麟がくる」では桶狭間の戦いから4年間がカットされてしまったこともあって、その死を語られることもなかった。

*21:没した月日は9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日など諸説ある。

*22:1540年生年説もあるのでその場合だと享年29歳。