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歴史人物語り#60 越前朝倉家の内政面での重臣であり、一乗谷四奉行とも呼ばれた朝倉景連、前波景定、小泉長利、河合吉統

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今回は朝倉家の一乗谷四奉行衆とも言われる4人の奉行衆
朝倉景連(あさくらかげつら)
前波景定(まえばかげさだ)、
小泉長利(こいずみながとし)
河合吉統(かわいよしむね)です。
麒麟がくる」では4人のうち誰かは登場するかも!?

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.朝倉景連(あさくらかげつら)

生年は不明。父は朝倉景宗(朝倉景伝という説も有り)
父の景宗は第9代朝倉氏当主の朝倉貞景(あさくらさだかげ)の弟
朝倉貞景の息子が第10代当主の孝景なので孝景と景連は従兄弟であり
第11代当主の義景とは叔父の関係になります。
朝倉氏の同名衆であり朝倉山城を居城としていました。
景連は父同様に一乗谷の奉行人として活躍しました。
また但馬の赤渕神社に書状を送るなど外交面における貢献も記録が残っています。

内政・外交のみならず1555年には朝倉宗滴を総大将とした
加賀一向一揆攻めにおいては津葉城を落城させる功を挙げています。

tsukumogatari.hatenablog.com

 1561年4月6日には当時の当主朝倉義景犬追物(いぬおうもの)を催しますが、
この時景連は500人ほどの家来と共に
義景を上回る豪奢な出で立ちで現れて周囲を驚かせたといいます。

ちなみに完全に余談なんですが
犬追物っていうのは
一定の広さを競技場として確保した上で
その場に大量の犬を放ち
時間内に犬を射た数で競うっていう
今から考えると残虐非道、動物愛護団体が黙ってはいない競技です。
犬をただ射ればいいだけじゃなくって、
どこに弓矢を当てたかによって技があるのだとか。
一応、「犬射引目」(いぬうちひきめ)っていう特殊な鏑矢を使っていて
矢が犬を貫通しないようにはなっていたそうですが
傷ついたり死んでしまう犬はいたそうで
そういう犬は食用になったり鷹狩り用の鷹の餌になったり
なんていう話も聞いたことがあります。
当時の武士たちにとっては
自らを鍛えるための重要な鍛錬の一つであり、
弓術の作法の一つであり
犬を殺すことを目的としていたはわけでもないので
あまり現代の倫理観や常識を当てはめて批判するのは
浅はかなのかもしれませんが
ちょっと気持ちいいものではありませんよね。

さて話は景連の話に戻して、
1562年には当主・義景の妻の叔父である大覚寺儀俊をもてなす宴会に
出席した記録が残っているのですが、
1566年を最後に奉行人から名前が消えているそうです。
また、1568年に足利義昭が当主・義景の館に訪れた際に伺候した同名衆の中にも
含まれていないので、1566年頃に亡くなったのではないかと言われています。

子に景胤(かげたね)と景泰(かげやす)がいましたが
二人とも1573年の一乗谷の戦いで敗れた後に織田家に属しました。
しかし、兄の景胤の方は1574年に富田長繁(とだながしげ)が主導となって
おこした土一揆の叛乱に加担します。
しかし織田軍が越前に再侵攻して一揆勢が不利となると
一揆頭目の首をもって信長に降伏しようとしますが、
許されずに斬首された
そうです。

2.前波景定(まえばかげさだ)

通称藤右衛門尉
生年は不明。父は前波吉当ではないかと言われています。
前波氏は一乗谷付近の前波村を本拠とした地侍であり
朝倉氏の直臣のなかでも筆頭格の家柄だそうです。
景貞は代々「藤右衛門尉」を称するその前波氏嫡流であり
朝倉義景の下、奉行衆として活躍しています。
1539年頃から第12代室町幕府将軍・足利義春への奏者を務めるなど
評定衆として家中でも重きをなしていたようです。
しかし1562年12月の奉行人連署状を最後にその名が消えて
1565年から嫡男・景当(かげまさ)が代わって連署状に現れるようになるため
この頃に亡くなったのではないかと言われています。

嫡男・景当、次男・吉継(よしつぐ)共に奉行人を務めています。
次男・吉継は後の桂田長俊(かつらだながとし)で一時期越前の守護代となった人。
この二人の兄弟についてはまた別で記事にする予定なので
ここで多くを語るのはやめておきましょう。

3.小泉長利(こいずみながとし)

通称藤左衛門尉
生年、父、共に不明。
小泉氏は元は大和興福寺衆人の箸尾氏が祖先
1469年~1486年に小泉藤永が朝倉氏に仕えたのが最初らしいです。
長利は第11代朝倉氏当主・朝倉義景の代に奉行衆として活躍
1550年5月の連署状に前波景定とともに連署したものが初出ですが
1564年6月17日発給の連署を最後に名前が出てこないので
この頃亡くなったのではないかと言われています。

嫡男は長治(ながはる)で父同様に藤左衛門尉を名乗りました。
1573年の一乗谷の戦いによって朝倉家が滅亡した後は
織田家に降伏した溝江長逸(みぞえながやす)を頼ったそうです。
しかし、1574年の一向一揆勢との戦いである
溝江館の戦いにおいて、溝江長逸と共に討死したと言われています。

4.河合吉統(かわいよしむね)

通称五郎兵衛
1521年生まれ父は河合久徳ではないかと言われています。(もしくは久徳は祖父)
吉統は内政手腕に長けており朝倉義景の下、奏者として活躍していましたが
1550年に奉行衆に任命されて以来、
1570年から1573年ぐらいまで家臣団最高位に就き、
一乗谷奉行人」と称されて行政全般に関与していました。
内政のみならず軍事面でも大野郡や加賀国への出陣記録が残っていますし
1570年の姉川の戦いにおいても2千騎ほどを率いて先鋒を務めています。
しかし1573年9月10日
近江から越前への撤退戦である刀根坂の戦いにおいて討死しました。
享年53歳

5.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの奉行衆たちは?

麒麟がくる」で四奉行衆が揃って出てくるのは難しいかもしれませんが
奉行衆の中でも最も位の高い河合吉統と
前波吉継の父・前波景定は出てくる可能性があるかなと思っています。
河合吉統は朝倉家臣団の中でも重鎮中の重鎮ですし
姉川の戦いでは先鋒も務めています。
それから前波景定の方は息子の前波吉継織田家に寝返ったり
その後は越前の守護代となったために富田長繁一揆を起こして
越前を乗っ取る事態に陥ったりしているので
息子との絡みで登場することがあるのかな、と。
4名とも明智光秀が朝倉家臣時代にちょうど活躍している人たちですから
一乗谷四奉行として一括りに登場する可能性も0ではないかなぁなんて。

そして信長の野望シリーズですが
四奉行のうち登場するのは河合吉統と朝倉景連の2人
ただし、景連の方は覇王伝を最後にしばらく登場していなかったのが
最新作の大志でパワーアップして再登場しています。

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久々の登場なので顔グラも新しいし
能力値も昔登場していた能力値と比較するとなんか高めです。

そして河合吉統の方はほぼ常連。
内政値が高めで知略もシリーズによっては高めに設定されています。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちら。

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奉行職の中でも最高位だったことを考えると
少し評価が低いかなっていう気がしなくもないです。
大志だと景連に負けちゃってますしね。

小泉長利は事績がよくわからない人だから
登場させずらいというのもあるでしょう。
それから前波景定自身は登場しませんが次男の吉継は登場します。

6.まとめ

今回は、朝倉氏の一乗谷四奉行とも言われる
朝倉景連、前波景定、小泉長利、河合吉統でした。
滅亡してしまった大名家の家臣で、
滅亡後生き残ってもいないことから
具体的な事績があまり残っていないのが可哀そうなところ。
生き延びて例えば徳川家の旗本として明治時代まで続いていたりすると
ウソか真かわからないような逸話まで作られたりするんですが(笑)、
その辺は滅亡してしまった家系の宿命と納得するしかないのかどうか。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!