歴史人物語り#21 明智光秀のピンチを救った丹波の情報通、丹波のことならお任せあれ!並河易家

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今回は明智光秀丹波攻略時から家臣となった
並河易家(なみかわやすいえ)です。
麒麟がくる」ではどのような活躍を見せるでしょうか!?

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.並河易家(なみかわやすいえ)とは

通称兵庫介、後に掃部介
丹波亀岡の国人で並河城(なびかじょう)の城主です。
並河因幡守宗隆の弟と言われていますが、
このお兄さんは後述の朱印状以外では聞いたことがないので
早くに亡くなってしまったか、
病弱で並河家を実質仕切っていたのは易家だったかのか、
この辺は想像の域を出ません。

易家は元々丹波亀山城の城主・内藤五郎兵衛忠行の家臣でした。
ちなみに丹波の内藤家は当時の丹波守護代であり、
キリシタン大名として有名な小西行長はその系譜の子孫だったりします。
それから松永久秀(茶器爆死お爺ちゃん)の弟・松永長頼
守護代内藤国貞の娘婿で、
長頼の息子・内藤忠俊キリシタン名の如安が有名)
内藤国貞の息子・内藤貞勝の後見役だったりします。

余談はさておき
亀山城城主・内藤忠行丹波攻略で侵攻してきた明智光秀にすんなり(?)従います。
しかし、忠行に臣従していた国人衆たちの中には徹底抗戦を構えるものもおり、
その中の一人に並河易家がいました。
抵抗していた並河易家がどのような経緯で光秀の味方になったのか、
具体的にはわかりませんが、
1575年6月16日に信長から易家と兄・宗隆に届いている朱印状を見ると
この頃は既に織田方として光秀の傘下に加わっていたことが伺えます。
ちなみにその朱印状の内容をざっくりと言うと。

『逆らい続けている守護代・内藤家に
天罰くらわすために光秀を派遣したから。
従わない連中にも同じ目に遭わせるように。
協力するやつらは許してやってもいいけどね。
しっかり忠義見せてくれよ(脅し)』

たぶんこの脅しっぽい文句で易家も味方についちゃったのでしょう(笑)
最初は抵抗していた国人衆も次々に織田方につき、
抵抗するのは一度は織田方に降っていた
丹波の赤鬼赤井直正(あかいなおまさ)ぐらいでした。 

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しかし赤井直正は、赤鬼と恐れられるぐらいですから戦がとにかく強かった!
ゲームの信長の野望でも、赤井直正一人がいるかいないかだけで
自軍の兵の削られ具合が全然違います(笑)

黒井城で籠城する赤井直正に対して、
光秀は城の周辺に2,3か所の砦を築いて包囲するのですが
赤井直正の調略によって味方だったはずの波多野秀治が裏切り
光秀の軍は3方向から攻め込まれて大敗してしまいます。
赤井の呼び込み軍法という)
光秀は坂本城へ逃げようとするのですが、
この時に丹波から坂本城への逃げ道を案内したのが
並河易家を始めとした並河一族だった
のです。
光秀は易家たちの道案内のおかげで
無事に居城である坂本城まで戻ることができたのです。
易家の株はこれでだいぶあがったでしょうね!
易家は丹波の情勢に詳しく長岡藤孝(細川藤孝

篠山城に籠っている波々伯部権藤(ははかべごんどう)を攻める際にも
城攻めのポイントを進言したりしています。 

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軍師的な役割をしているかんじですね。
易家の居城・並河城は
内陸でありながらも大阪湾まで繋がる支流もあって

交通の要所として重要な地だったようです。
情報を入手しやすい地で構えていたことによって丹波周辺の情報通となり、
丹波方面の情勢アドバイザー的役割をしていたのかもしれませんね。
いつの時代でも情報通は重宝されるもの!

1579年6月1日に光秀が波多野秀治を和議と騙して神尾山城で捕らえた際には
易家も同席しており、
秀治の弟・秀尚(ひでまさ)を捕らえる功績をあげています。
長岡藤孝・忠興父子が光秀と共に丹後の一色義道を攻めた際にも
易家は明智秀満の軍に所属していたようですから、
当時主要な戦線には引っ張り出されていたようですね。

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そして本能寺の変が起きました。
並河易家は本能寺の変自体には参加していないのかもしれませんが、
後の山崎の戦いでは、
右翼先陣として子供の八助と共に出陣しています。
山の手で、堀秀政浅野長政らと衝突し
500人を討ち取りつつ300人余りが討死となる激戦となります。
その後、易家は討死したともいわれていますし、
生き延びて秀吉より大坂で扶助を受けて摂津で亡くなったともいわれています。
山崎の戦いの後に行われた茶会で明智掃部」という人物がいたそうですが、
これが並河易家ではないかとも言われているそうです。

2.並河易家の子孫たち

易家の生死の真偽はわからないのですが
嫡男の宗為は加藤清正に家老として仕えています。

宗為の嫡男の宗昭も、
加藤清正の嫡男で熊本藩第2代藩主の加藤忠広に家臣として仕えていました。
しかし、加藤忠広が若年で藩政をうまくまとめられず内政が次第に乱れていくと
改易されてしまいます。
忠弘が改易され配流となった後は、宗昭は浪人生活を送ったのち、
土佐藩主・山内忠義に2000石で仕え、
忠義の跡目を継いだ山内一安の頃には家老職となっています。

大きな事績を残してきた一族ではないかもしれませんが、
主君に仕える家臣としては有能な働きをしているからこそ
家老職などの重職を任されたのでしょうね。

3.「麒麟がくる」での並河易家の出番は?

配役はまだ発表がないとはいえ、
是非登場してほしいと思っている一人が並河易家です。
登場時期は後半になってしまいますが、
光秀の丹波攻略戦での主要キャストとして是非とも登場してほしい!
丹波の赤鬼に大敗して丹波へ逃げかえる時の光秀を先導する役は、
真田丸」で本能寺の変後に家康の伊賀越えを先導していた
服部半蔵の姿とだぶりますよね!?(笑)
※まぁあれみたいにコメディにする必要はないんですが(笑)
そして、丹波の情勢に詳しい易家が
丹波攻めに試案している際の軍議で意見を求められて発言したりとか、
ちょっと出来る男的感じの風格を見せる、
そんなシーンがあるといいなぁって思っています。
どうなることやら!(笑)

4.まとめ

今回は光秀の丹波敗戦後の脱出で大きな貢献をし、
その後光秀の家臣として活躍した並河易家でした。
信長の野望シリーズには多分一度も出てないと思います!
埋もれさせてはならない武将の一人だと思っているので
麒麟が来る」で良い出番を作ってくれるといいなぁと思っている次第です!
そういえば、信長の野望・創造 戦国立志伝で安田作兵衛プレイシリーズ
しばらく滞ってしまっていますが、そろそろ続きを公開します。

tsukumogatari.hatenablog.com書き方にもよるんでしょうが、
ゲームプレイはなかなか纏めるのが大変なんです(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!