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歴史人物語り#71 若き浅井氏当主にして湖北の鷹と謳われる浅井長政を一門衆として支えたけどマイナーな浅井政澄と浅井亮親

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今回は浅井氏を一門衆として支えた
浅井政澄(あざいまさずみ)と、
浅井亮親(あざいすけちか)
麒麟がくる」に登場するかどうかはともかく(?)、
浅井政澄は信長の野望シリーズに登場させてほしいと切に願っています!

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.浅井政澄(あざいまさずみ)

生年は不明。父は浅井政信(あざいまさのぶ)
父・浅井政信は浅井亮政・久政の代に奏者として仕えており、
その父は浅井氏第3代当主の浅井直政(あざいなおまさ)とも言われています。
しかし、別の系譜だと浅井直政の息子としては登場しておらず
浅井亮政は浅井直政の娘・蔵屋(くらや)の娘婿として養嗣子に迎えられています。
つまり出自はよくわかりません。

それはともかく浅井政澄は浅井長政の宿老の一人として
浅井家を支えた一門衆の一人であることは確かなようです。
浅井長政が六角氏に臣従している状態に納得がいかず
六角氏からの独立を悩んでいた時、
その相談をもちかけたのが長政の傅役であった遠藤直経と、
この浅井政澄なのです。

tsukumogatari.hatenablog.com

浅井政澄は遠藤直経と共に六角氏からの独立を賛成し、
攻め立てることを進言します。
そして浅井長政は実際に行動を起こします。

六角氏の家臣であった肥田城主・高野備前守が調略によって浅井方に寝返り
その寝返りを激怒した六角承禎(ろっかくじょうてい、義賢)が攻め寄せて
肥田城に水攻めを開始します。この水攻め自体は失敗におわるんですが、
実はこの水攻め、羽柴秀吉が後に参考したとも言われていたりしますね。
肥田城を攻め寄せられたことを知ると、浅井長政は救援に向かいます。
当時、六角氏に対しては臣従政策を重視していた父・浅井久政
六角氏と事を構えようとする息子・長政を留めようともしたそうですが、
重臣たちの後押しもあり、15歳という若さの勢いもあり、
六角氏と戦うべく、肥田城へと向かうのです。
そして野良田において、六角氏の軍勢と対峙します。

この時の六角軍は2万5千。対して浅井長政率いる浅井軍は1万千
六角氏の先鋒には後に信長に目をかけられて信長の娘婿となった
蒲生氏郷(がもううじさと)の祖父・蒲生定秀(がもうさだひで)が控えるなど
精強な六角軍の面々が参陣している状態でした。
そのため序盤は、六角氏が兵力差で圧倒し優位に戦局を進めていましたが
それが仇となり油断に繋がったのか、徐々に浅井軍の反撃で切り崩され始め
最終的には浅井軍が勝利を収めます
この戦で浅井氏が勝利したことは非常に大きな意味を込めており、
それまで六角氏寄りだった国人衆たちも、浅井氏の味方につくようになります。
浅井家中においても、この戦での浅井長政の戦いぶりを
祖父・浅井亮政に似たりと褒めちぎり心酔する家臣たちが続出、
結果、浅井家は浅井長政を軸として一つになっていくのです。

浅井政澄や遠藤直経の後押しがなければこの結果は生まれなかったかもしれません。

しかしこの浅井政澄、1570年の姉川の戦いにおいて討死してしまいます。
姉川の戦いでは、戦法・磯野員昌(いそのかずまさ)の後、第2陣を務めていました。

tsukumogatari.hatenablog.com

姉川の戦いは、婚姻同盟をしていた織田家との関係を断ち切って
朝倉軍に味方したことによって生じた、
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との戦い。
そもそも織田・徳川連合軍の方が兵力差で有利な状況だったこともあり、
朝倉軍が敗走をし始めたことをきっかけに、
浅井軍も崩れ始めて敗走することになります。
この戦いの最中に、西美濃三人衆の一人、氏家卜全(うじいえぼくぜん)によって
浅井政澄は討ち取られてしまったと言われています。

tsukumogatari.hatenablog.com


姉川の戦いにおいては、政澄の3人の弟、政成・政連・政重も討死したそうです。
政澄の息子の政勝はその後の小谷城の戦いにおいて20歳前後の若さで討死したとか。

2.浅井亮親(あざいすけちか)

通称与次郎
生年は不明。父は浅井秀信(あざいひでのぶ)
祖父・浅井清政(あざいきよまさ)は浅井氏3代当主の浅井直正(あざいなおまさ)の弟ですから
一門衆の中でも位の高い方だったのではないでしょうか。
父・秀信は浅井亮政と久政の代に右筆として仕えており、
書道の才能もあったそうですよ。

ちなみに右筆とはこんな感じです。

右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた

引用:Wikipedia

 そのため、亮親も父と共に右筆を務めていたようです。
一門衆の一人として、亮親は浅井久政浅井長政の代に活躍
奏者を務めていたという話もありますから、
当主に近い存在として、浅井家中を切り盛りする武将の一人だったのでしょう。
1570年に婚姻同盟を結んでいた織田家が約束を破って
浅井家に相談することなく越前朝倉氏を攻めた際には
多くの家臣が反織田を推す一方で、
織田を裏切ることを良しとせず当主・浅井長政を諫めたと言います。
同じく遠藤直経も朝倉ではなく織田につくことを薦めていました

tsukumogatari.hatenablog.com

元々、同盟をする際に朝倉に攻める時は相談するっていってたのに
あっさりそれを破った織田信長に非があるんですが
浅井亮親としては、織田信長の勢いと器量を認めていたからなのかもしれません。
しかし、浅井亮親や遠藤直経の意見は取り入れられませんでした。
その結果、1570年の姉川の戦いの敗戦を経て
1573年の小谷城の戦いにおいて奮戦むなしく浅井家は滅亡となります。
この戦いにおいて浅井亮親も捕縛されてしまうのですが
信長の面前に連行された際には、
信長に対して痛烈な罵倒を浴びせた
そうです。
信長を裏切ることを諫めようとしていたとはいえ、
やはり信長の信義に反する行動には不満があったのでしょうね。
捕縛されいつ処刑されてもおかしくはない状況だったとはいえ
信長に一言二言吐き出させねば収まらない感情で溢れていたのでしょう
信長はこの亮親の罵声に激怒して直接処刑したとか。
信長が直接手を下すということは
よっぽどな暴言を吐き出したのでしょうけど
どんなことを言ったのか気になりますね。

ちなみに、亮親は同じく一門の浅井盛政(あざいもりまさ)の息子・吉政(よしまさ)を
養子に貰っています。
吉政は、養父の亮親が処刑された後も実の父・盛政と共に生き延びており
藤堂高虎の家臣として仕えています。
藤堂高虎といえば、いろんな主君に鞍替えしたことで有名な武将ですが
浅井長政の家臣として仕えていたこともあったので
そういった縁から仕えることになったのでしょう。
藤堂高虎甥の賢政を養子にもらっていたりもします。
しかし、藤堂一族の専横独占が気に入らず、
そのうち賢政との養子縁組も解消して
父・盛政と主に藤堂家を出奔して、羽柴秀吉仕えます。
ところが1583年の賤ケ岳の戦いでは柴田勝家に属して戦ったそうで、
羽柴秀吉の家臣・加藤嘉明(かとうよしあきら)に討ち取られたそうです。
※討ち取ったのは同族の浅井井頼(あざいいより)、平野長泰(ひらのながやす)、渡辺了(わたなべさとる)など説は様々。


3.「麒麟がくる」で浅井政澄と浅井亮親の登場はある?信長の野望シリーズでは?

麒麟がくる」に果たして二人が出てくるかどうかは
いろいろキャストの問題がありそうな気がします。
メインは明智光秀なので、他家の重臣であっても
光秀とあまり関りのない人物は省略されてしまうと思うんですよね。
浅井政澄も浅井亮親も一門衆であり、当主・長政に近い存在だったので
登場しやすい位置に入ると思うんですけど、
他の家臣たちとも総合的に判断して間引かれてしまうかも(笑)
浅井氏中心で動くストーリーであれば全然登場機会は増えるんでしょうけどね。
果たして浅井家臣の中で出演チャンスをゲットするのは
どの家臣なのか、個人的には見所です。

信長の野望シリーズにおいては、浅井政澄は登場しませんが
浅井亮親は創造から登場するようになりました。
冒頭でも言った通りなんですけど、
浅井政澄も是非今後登場させてほしいです。
能力値は60ぐらい平均、と勝手に要望(笑)
そして信長の野望・創造 戦国立志伝での浅井亮親の評価値はこちら。

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なかなか有能な武将として評価されています。
具体的に誰かの首をとったとか、外交や調略で活躍したとか
聞いたことないけど、これは何かの忖度なんでしょうか(笑)
長政を諫めたことと誰もが恐れる信長に罵声浴びせたことが
評価につながったんでしょうか。
浅井家臣はとりわけ政治や知略に疎い家臣が多いので(笑)、
そういった意味でも浅井亮親は貴重な人材です。

4.まとめ

今回は浅井家一門衆の浅井政澄浅井亮親でした。
両者ともに、浅井家中では重きをなし
浅井長政からも信任の厚い一門衆だったのだと思います。
特に浅井政澄が姉川の戦いで討死してしまったことは
長政にとっても大きな痛手だったのではないでしょうか。
もちろん政澄が生きていても、浅井家の結末は
織田家と袂を分かつことに決めた時点で決まっていたような気がしますが。

それでは今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!