NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で
学ぶシリーズの
「麒麟で学ぶ」第21回目です。
今回は鷲津砦を落とした朝比奈泰朝や
松平元康が話していた
裏切り者のレッテルについて、
そして桶狭間の戦いにおける
今川義元の誤算や
今川義元と直に対峙した服部小平太と
毛利新介について書いてみました。
あ、信長さまのお子様についても
少し言及してみました。
奇妙丸だけじゃないでしょってことで(笑)
さて本シリーズの前提事項的なものを
毎回0章に記載していますので、
初めて本シリーズの記事を読む方は
さらっと一読していただけると
助かります。
既に読んだことのある方は
読み飛ばして頂いてかまいません。
また前提の一番最初に記載していますが
本シリーズは「麒麟がくる」の
ネタバレを含みます。
当日の放送や再放送も見逃して
まだ視聴されていない方は
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオで
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
見逃し分を視聴できます。
こちらで視聴した上で本記事を読まれると
いいかもしれません。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。
※本記事掲載のAmazonプライムビデオおよびU-NEXT配信情報は、2021年3月31日時点のものです。
最新情報については各サイトにてご確認ください。
しかしネタバレ含んでいるけど、
本記事を読んでから視聴すると
少し前提知識が入った上での視聴になるので
それはそれでいいのかもしれませんけどね。
そして「麒麟で学ぶ」の過去分については
こちらからどうぞ。
では今回のお品書きはこちらになります。
- 0.本記事を読むにあたっての前提など
- 1.「麒麟がくる」第21話「決戦!桶狭間」からの学び
- 1.1.桶狭間の戦い・前哨戦からの学び
- 1.2.桶狭間の戦いからの学び
- 1.3.今川義元討死からの学び
- 1.4.没した登場人物たち
- 1.5.参考資料
- 2.まとめ
ちなみに2019年12月15日から更新中の
「麒麟がくる」公式サイトと公式Twitterもブックマーク、フォローしておくと
より一層「麒麟がくる」を楽しめると思いますので
まだの方は是非とも。
→2021年3月31日をもって公式サイト・Twitter・Instagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!
0.本記事を読むにあたっての前提など
ネタバレ含みます
本シリーズはNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の
各話を元ネタとしているため
ネタバレ情報を存分に含んでいますので
その辺は考慮の上お読みください。
記事と「麒麟がくる」の各話の関係
基本的に「麒麟がくる」の
1話に対応して1記事書く予定です。
複数話をまとめた内容の記事を
書く予定はありません。
つまり「麒麟がくる」第1話に対応するのは
「麒麟で学ぶ#1」ですし
第10話であれば「麒麟で学ぶ#10」が
対応した記事になります。
もし何らかの事情で対応記事を書けない場合は
その話数と同一の記事ナンバーは
廃番扱いにします。
名前の表記について
例えば斎藤道三、斎藤義龍については
伝わりやすさを重視して
本記事内では「麒麟がくる」での名前に
合わせることにします。
ドラマの中で呼び名が変われば
それに合わせて変更しますが
あくまでも第1話と対になる記事であれば
第1話の中での呼び名で統一します。
この呼び名のルールについては
全話通して同様であり
斎藤道三親子以外の
その他の人物についても適用します。
1.「麒麟がくる」第21話「決戦!桶狭間」からの学び
まずは全体の感想から。
今回はこの記事のタイトル通りです。
かつてここまで臨場感と緊張感が
ひしひしと伝わってくるような
桶狭間の戦いはあったでしょうか?
ていうぐらい、最初から最後まで
ワクワクとドキドキが止まらない
史上最高の桶狭間の戦いだった
と私は思います。
「麒麟がくる」の桶狭間の戦いが
史上最高となったのは(当社比w)
今川勢と織田勢、そして松平勢の三者の様子が
時系列に描かれたことが
大きな要因だろうと思うんです。
そして今川軍がなぜ大軍を擁しながらも
寡兵の織田軍に敗北してしまったのか
その理由が理路整然としていて
この戦の勝利がただの奇跡ではなく
信長さまがきちんと勝つ道筋を立てて
臨んだ戦として描かれた最初の桶狭間の戦い
と言っても過言ではないのでは。
それに今川義元が勇敢に戦ってる姿って
実は初めてだったりしないんですかね?
「信長公記」には
勇ましく太刀を振るいながらも
討ち取られてしまった様子が書かれていますが
ドラマとかだと公家っぽいイメージが強くて
ちょっと弱弱しい感じに描かれたりするし。
側近の朝比奈親徳が守るところも良かったし
そして何よりも
毛利新介の必殺技炸裂シーンは最高でした!
今川義元の目に映る毛利新介は
今まさに引導を渡されようとしている
義元の心情が見えるような気もしました。
討ち取られた今川義元も
討ち取った毛利新介も
共にカッコよかったと思うのです。
十兵衛は流石にこの時期
何をしてたか不明なので
主人公であっても
脇役みたいな感じでいいんです(笑)
信長さまのために水を用意してたのは
なかなかの心遣いでしたけどね!
ちなみに十兵衛は
どうやって桶狭間の勝利を知ったんでしょうね。
毛利新介の声が届いたのかな?(笑)
といったところでそろそろ本題へ。
ちなみに第21話の公式サイトのトリセツはこちらです。
今回のトリセツでは桶狭間の戦いの図解や
今川義元が輿に乗ってた理由、
そして信長さまが歌っていた
幸若舞の「敦盛」について説明があるので
一読してみてくださいね。
→2021年3月31日をもって公式サイト・Twitter・Instagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!
登場人物の年齢のおさらい
まずは主な登場人物たちの年齢確認を。
今回は前回に引き続き
永禄3年(1560年)スタート。
なので年齢の変更は無しです。
追加した人物は赤字にしています。
また前回の話の中で亡くなった
と判明した人物に関しては
こちらの一覧からは削除して
後述の亡くなった人を弔う章に
引き続き掲載する形にしています。
ちなみに生年不明な人とか
年齢設定不明な人以外の生年については
Wikipediaをベースにしています。
あと基本的に全員数え年の年齢です。
■1560年でのみんなの年齢
- 明智十兵衛光秀 33歳(1528年生)
- 妻木煕子 不明だけど1530年生まれの説なら31歳
- お岸 不明だけど1560年生まれの設定なら1歳
- 明智左馬助 25歳(1536年生)
- 牧 不明。明智光安より下か同じぐらいか?
- 足利義輝 25歳(1536年生)
- 三淵藤英 不明。弟・藤孝よりは多分年上
- 細川藤孝 27歳(1534年生)
- 貞永久四郎 三淵藤英の家臣。さっぱりわかりませんw
- 細川晴元 47歳(1514年生)
- 三好長慶 39歳(1522年生)
- 松永久秀 53歳(1508年生)
- 土岐頼芸 59歳(1502年生)
- 斎藤義龍 34歳(1527年生)
- 稲葉良通 46歳(1515年生)
- 長井秀元 不明。稲葉良通ぐらい?
- 日根野備中守 43歳(1518年生)
- 藤田伝吾 不明。光秀と年齢近そう
- 与八 不明。光秀より下?
- 佐助 不明。光秀より下?
- 斯波義銀 21歳(1540年生)
- 織田信長 27歳(1534年生)
- 帰蝶 26歳(1535年生)
- 織田奇妙丸 4歳(1557年生)
- 土田御前 不明。信長の野望だと寿命設定の無い特典武将だったりするのでこちらも不明
- 織田信広 不明。信長の野望だと1527年生まれの設定なので34歳
- 佐久間盛重 不明。信長の野望だと1519年生まれの設定なので42歳
- 柴田勝家 39歳(1522年生)
- 簗田政綱 不明。信長の野望だと1532年生まれの設定なので29歳
- 中条家忠 不明。簗田政綱と佐々成政ぐらいの年齢?
- 佐々隼人正 39歳(1522年生)
- 佐久間信盛 33歳(1528年生)
- 毛利十郎 不明。毛利長秀の養父であることを考えると勝家たちと同年代か。
- 佐々成政 25歳(1536年生)
- 前田利家 22歳(1539年生)
- 毛利長秀 20歳(1541年生)
- 毛利新介 不明。信長の野望だと1535年生まれの設定なので26歳
- 服部小平太 不明。当時毛利新介たち同様に馬廻だったので彼らに近い年齢かも。
- 藤吉郎 24歳(1537年生)
- 今川義元 42歳(1519年生)
- 朝比奈親徳 不明。太原雪斎に近い年齢だったかも?
- 鵜殿長照 不明。信長の野望だと1533年生まれの設定なので28歳
- 松平元康 18歳(1543年生)
- 源応尼 69歳(1492年生)
- 水野信元 不明。於大の方よりは上。信長の野望だと1508年生まれの設定なので53歳
- 伊平次 不明。光秀よりは年下か?
- 於大の方 33歳(1528年生)
- 朝倉義景 28歳(1533年生)
- 宇野市兵 不明。実在した人ではない?
- 望月東庵 不明。斎藤利政や平手政秀ぐらい?
- 駒 28歳(確か初登場時で15歳の設定)
- 菊丸 不明。光秀と同じぐらい?
- 伊平次 不明。光秀よりは年下か?
- 伊呂波大夫 不明。光秀と年齢は近いか?
- 芳仁 不明。東庵先生よりは下?
1.1.桶狭間の戦い・前哨戦からの学び
鷲津砦を落とした朝比奈泰朝
前回の記事でも書きましたが
鷲津砦は丸根砦と共に
大高城と鳴海城を分断する位置に作られた
織田軍にとっては重要拠点。
鷲津砦の守将として配備されたのが
信長さまの大叔父である織田秀敏と
飯尾定宗・尚清父子でしたが
朝比奈泰朝率いる今川方に攻められます。
信長さまも清州から出陣しますが
熱田神社に着いた辺りで
鷲津砦も丸根砦も落ちていたらしく
砦の方角から煙があがっていたと
「信長公記」にも書かれています。
鷲津砦を落とした今川軍の朝比奈泰朝は
前回の記事で朝比奈親徳のことを書いた際に
名前を出しましたが、朝比奈親徳と同族であり
遠江の掛川城を居城に今川氏を支えた<重臣。
特に泰朝の父・朝比奈泰能は
今川氏親・氏輝・義元の3代に仕えた宿老で
今川氏の分国法である「今川仮名目録」にも
三浦氏満と共に重臣として記されています。
その子・泰朝は父の泰能が弘治3年(1557年)に
亡くなったため家督を継いでいます。
また、朝比奈泰朝の母が
今川義元の母・寿桂尼の姪にあたるそうで
その繋がりから公家の山科言継とも
親交があったそうです。
さて鷲津砦を落とした朝比奈泰朝の部隊でしたが
「麒麟がくる」では乱取りをしていたがために
今川義元本隊からのコントロールが
うまく出来ない状態に。
この今川軍が乱取りをしていたという話は
「甲陽軍鑑」に載っているらしいです。
「信長公記」は織田視点ということもあって
その辺のことは書かれていませんけどね。
桶狭間の戦いにおいて
今川義元が討ち取られた影響は甚大で
今川領内でも多くの諸将が寝返るなど
混乱していましたが
朝比奈泰朝は寝返ることなく
義元の嫡男・今川氏真に
最後まで忠節を尽くしています。
ちなみに没年についてはわかっておりません。
「麒麟がくる」では配役無しで
名前のみの登場のため
今回限りかもしれませんね。
己は終生裏切り者と言われる
母・於大の方からの文を読んで
感涙していた松平元康でしたが
母の指示通りに織田軍に寝返る選択はせず
今川義元のお達し通りに丸根砦を攻める
という決断をしましたね。
その時にこんなことを言っていました。
『しかしここで手のひらを返せば
家臣たちに勝てるかどうかも分からぬ
今川様との戦を強いることになる。
駿河にいる妻や子や
身内の多くが捕らえられ殺され
己は終生 裏切り者と言われる。』
この松平元康のセリフ
ちょっと後の十兵衛の気持ちを
汲んでるようなセリフに聞こえたのは
私だけでしょうか。
主君を裏切るっていうことは
当時の人々にとっても生半可な気持ちでは
起こせない行動だと思います。
裏切るには裏切るだけの理由があるはず。
良い意味でも悪い意味でも
裏切る側の利害も関係しているでしょう。
ただそれは、一方から見た正義の下のもの。
いくら正当そうな理由付けがあっても
人を裏切る行為は、いつの時代でも
他者から咎められやすい行為であり
実際に、明智光秀という人は
もう何百年という間
その裏切り者のレッテルを剥せずにいます。
ということを考えると、この元康のセリフは
深い意味がありそうな気がしてしまいます。
松平元康がここで母の情や
三河の者たちの願いに流されず
織田方に寝返らない決断をしたことは
”現状を守る”という観点からすれば
当然の決断だったろうと思います。
もちろんその決断には
”今川軍圧勝”という状況下にあったことが
大きいんでしょうけどね。
ところで信長さま
前回の水野信元との会合の中で
三河に手を出さぬ約束をしていましたが
桶狭間の戦いの翌年4月上旬に信長が
三河の梅ガ坪の城を攻めたことが
「信長公記」には記載されています。
「麒麟がくる」ではその辺のことは
多分描かれず争いもなく、で進みそうですが
元々織田と松平は国境で争いを続けていたし
信長の父・信秀と元康の父・広忠も宿敵同士。
両者が清須同盟を結ぶまでには
桶狭間の戦いから2年かかっているんですよね。
某ゲームでのイベントみたいに
桶狭間の戦い→松平元康独立→清須同盟
とスムーズにはいかなかったのです(笑)
死のうは一定
今川の大軍を前にして
為す術が無いかのように見える信長さま。
しかし意外と冷静に現状分析をしていて
大軍であった今川軍が分散していて
実は今川義元本隊は既に大軍ではない事を予測し
信長さま自ら出陣することも決意します。
しかしだとしても負けたとしたらと
帰蝶さまに言われると
『死のうは一定という。』
と信長さまが返しました。
『死のふは一定
しのび草には何しようぞ
一定かたりおこすよの』
信長さまが好きな小唄として
「信長公記」でも紹介されています。
意味はこんな感じです。
「死は必ず訪れる。
死後に私を偲んで思い出してもらうために
何をしておこうか。
人はきっとそれをよすがに
私の事を思い出してくれるだろう。」
死は誰にでも等しく訪れるものであり
それを常日頃から感じていたからこそ
信長さまは他者には為しえない事を
成し遂げることが出来たのかもしれません。
ちなみに「信長公記」では
信長さまがこの小唄を好きという話を
天沢(てんたく)というお坊さんが
甲斐の武田信玄に話しています。
天沢和尚は天台宗の高僧で出身は尾張。
清須から50町東にある春日井原のはずれ
味鏡(あじま)という村の
天永寺に住持しているのだとか。
関東へ下る途中で甲斐に立ち寄る際に
役人に信玄公に挨拶しとけと言われたため
武田信玄の下を訪れます。
そこで尾張の出身であることを信玄公に話すと
『織田信長のことを全部教えて』
と言われたために毎朝の稽古の話から始まり
前述の好きな小唄の話や
幸若舞の『敦盛』が好きなことを
伝えたのだそうです。
これがいつの話なのかはよくわからないんですが
世間では大うつけと悪評の高い織田信長が
実際はどんな人物なのか
信玄公も興味があったんでしょうね。
信長が最も愛したとも言われる吉乃と嫡男・奇妙丸
信長さまが帰蝶さまに
とんでもないサプライズをしてくれました(笑)
吉乃という側室に産ませた嫡男・奇妙丸を
自分が死んだら代わりに育ててくれ
尾張の事を任せる
と言われても・・・
帰蝶さまも少し複雑だったのでは?(笑)
奇妙丸は後の織田信忠ですね。
織田信忠は弘治3年(1557年)生まれなので
当時4歳ぐらい。
そして信長さまはまだ隠していることが・・・
実は吉乃は奇妙丸以外に
既に二人の子を産んでいます。
茶筅丸、後の織田信雄が永禄元年(1558年)に
そして徳姫(五徳とも)が永禄2年(1559年)に
誕生しています。
徳姫は後に松平元康の嫡男・松平信康に嫁ぐけど
いろいろ・・・ご存知の方も多いでしょう。
ちなみに吉乃の名は創作上作られた名で
生駒氏子孫の方たちは久菴もしくは生駒の方
という呼び方をしています。
さて、生まれている子供は
それだけじゃありませんよね?(笑)
三七、のちの織田信孝も永禄元年(1558年)に
誕生していてその母は
吉乃とはまた別の側室、坂氏の娘です。
さらにもう一人、
一説には後に蒲生氏郷の正室となる
相応院*1も永禄元年出生説があります。
相応院の母は吉乃でもなく坂氏の娘でもなく
養観院という出自不明の女性です。
果たしてこれらの子の存在を
帰蝶さまが知ることになるのは
いつの日の事なのでしょうか(笑)
ところで生駒吉乃の話に戻るんですが
「麒麟がくる」に絡む話があります。
吉乃は信長さまに嫁ぐ前に結婚していました。
その人物の名は「土田弥平次」と
「武功夜話」に書かれているんですが
弥平次の姓は実はわかっていないらしいです。
「武功夜話」で創作して”土田”としたらしく
大元の記録、尾張生駒家の家譜には
「何某弥平次」と書かれているんだそうです。
当時武家の婚姻は政略結婚がほとんどだし
どこの誰とも知れぬ者との結婚は
通常ではあり得ないわけで
由緒正しくって考えで行けば
家譜に夫の姓が明かされていないのは不自然。
姓を伏せているのは何が意味があるのでは
と生駒氏の子孫の方が
こちらのコラムで書いています。
そして推測の域は出ないが
この「何某弥平次」って明智秀満のことでは?
と言ってるんです。
明智秀満って「麒麟がくる」だと
明智光安の子・明智左馬助
ってことになってますけど
明智秀満にも出自の説がいろいろあって
最初は三宅弥平次と名乗っていた
という説があるんですよね。
そして、吉乃の母は美濃の出身で
現在の大垣市辺りに実家があったのだとか。
三宅弥平次、すなわち明智秀満も
美濃の可児郡辺りを中心に活動していたわけで
接点があってもおかしくはないかもしれない。
しかも明智秀満が浪人になった時期*2と
吉乃が信長さまに輿入れした時期が近い。
明智秀満は後々明智光秀が起こす
本能寺の変に加担した裏切り者です。
家譜を書く際にそのことを配慮して
姓をわざと伏せたのではないか
と言っています。
もちろんご本人が推測の域を出ない
と言っていますし
それを示す証拠も何もないんですけど
ちょっと有り得そうで面白い話だなぁと。
そしてここで改めて前述の
松平元康の『己は終生裏切り者と言われる』
言葉が甦ってきます。
語られてはいないというか
決して誰も知ることが出来ない真実が
明智光秀の周りには
沢山あるような気がしてなりません。
1.2.桶狭間の戦いからの学び
桶狭間という地
織田軍と今川軍の決戦の地となる桶狭間。
この地について「信長公記」では
以下のように書かれています。
今川勢は運の尽きた証拠だろうか。桶狭間というところは狭く入り組んで、深田に足をとられ、草木が高く低く茂り、この上もない難所であった。
引用:現代語訳 信長公記 新人物文庫
「麒麟がくる」でも描写があったように
突然の大雨によって地面がぬかるんだこともあり
戦う場としては最悪のステージだったのでは。
狭く入り組んでいる地であれば
相手の兵力が勝っていたとしても
袋叩きにあうこともないでしょう。
そして体制をきちんと整えていたわけでもなく
奇襲を受ける形となった今川軍からしたら
否応なくして防戦側に回っているので
撤退戦に近い戦い方になってしまったのでは。
撤退戦で士気を維持するのは難しく
最も兵が死にやすいとも言われていますしね。
突然降りしきる雨に喜ぶ信長さまと
逆に雨から逃れようと退避する今川勢。
この時点で既に
双方の兵の士気に差が出てしまった気もします。
大きな数字に惑わされない信長さま
今川は大軍。
2万5千もの兵をかき集めて尾張へやってくる。
織田方は集めても3千がいいところ。
兵力差が8倍もあっては
籠城したところで勝てるかどうか・・・。
耳に入って来る数字だけに着目してたら
信長さまはそのまま今川義元に敗れていたかも。
しかし信長さまは過去の父・信秀が
今川義元の慎重さを話していたことや
各砦や城へ兵を割いていることを加味して
今川義元本隊はもう大軍じゃないのでは?
と分析していました。
松平元康が織田への裏切りの話が来た時に
織田勢と三河勢全てを合わせても
今川の大軍には遠く及ばない
と言っていたことと対比になってるのが
また面白いです。
今川軍全体の兵力は
確かに大きな数かもしれないけど
その全兵力が一点集中しない限りは勝機がある
と考えたんでしょうね。
今川の大軍がきて大変だと騒いでいる
家老たちにも見習ってほしいですね(笑)
しかも織田方の寡兵で
まともに勝負のできる兵数に落ちるまで
今川軍に手を出しませんでした。
窮地に立たされた時こそ冷静になれ
と信長さまに教えられた気がします。
これまではなんとなく
帰蝶さまに操られてた信長さまが
織田信長として覚醒したような(笑)。
信長さまが勝つことを諦めずに
現状分析をしっかりおこなったからこそ
大逆転劇に繋がったんですね。
今回の桶狭間の戦いは本当に素晴らしい!
流し目がちな佐久間右衛門尉信盛
あまりセリフの多くなかった佐久間右衛門。
なんかずっと流し目だった気がします(笑)
佐久間右衛門は諱が信盛。
前回の記事でも
善照寺砦に弟の信置と共に配備された事を
書きました。
佐久間信盛は織田信秀の代から仕える重臣で
平手政秀が亡くなって以降の織田家筆頭家老。
撤退戦における殿軍の指揮が得意だったため
「退き佐久間」の名でも有名です。*3
佐久間信盛は信長さまの家督相続以降
常に信長さまを支持していて
信長さまの弟・信勝が反旗を翻した
稲生の戦いでの目覚ましい働きにより
織田家臣団の筆頭格に昇りつめます。
今回丸根砦の守備に付いていた
佐久間盛重は同じ一族の者ですが
佐久間盛重は元々織田信勝付けの家老なのに
稲生の戦いでは信長さまに与して
敵方武将を討ち取るなど活躍しています。
これは同族の信盛が信長さま側に付いたために
直接の主君の信勝ではなく
信長さまを選んだのかもしれません。
佐久間信盛は筆頭家老として
様々な政務や軍事に従事しています。
特に軍事面での貢献が多く
信長さま上洛時など畿内における戦関連で
今後も度々登場すると思います。
十兵衛との絡みもあるでしょうね。
そして佐久間信盛といえば有名なのは
19カ条の折檻状で
「信長公記」に19カ条全てが記されています。
信長さまから見た佐久間信盛の怠慢を
19カ条に書き連ねたもので
読んでみると・・・
信長さまの怒りが容易に想像できます(笑)
この折檻状が信盛に突き出されるのは
だいぶ後の話ではありますが
内容に興味のある方はWikipediaに
原文も現代語訳も掲載されているので
ご覧になってみてください。
『信長による19ヶ条の折檻状(現代語訳)』
中島砦から出陣した佐々隼人正
信長さまが
まだ今川本隊の兵力が多い
もう少し減らせられないものか
と言っていたら
信長さまの家臣は優秀ですね。
それを聞いただけで、ちゃんと策を考えて
それ相応の動きをしてくれる!
信長さまのリーダーシップの賜物ですかね。
さて、その信長さまのつぶやきで
中島砦から今川軍へ攻撃を仕掛けたのが
佐々隼人正。
諱は政次*4とも伝わっています。
佐々成政のお兄さんです。
佐々成政といえば以前
聖徳寺の会見で信長さまと道三さまが
初めて顔を合わせた時に信長さまが紹介した
二人の家臣のうちの一人ですね。
佐々隼人正は小豆坂の七本槍にあげられる一人で
「信長公記」でも弟の孫介*5と共に
「限りない手柄を立てた者」の一人として
名を挙げられています。
そして「麒麟がくる」では戦っているシーンが
ちらっと描かれていただけなんですが
残念なことにこの戦いで討死しています。
「信長公記」では
信長さまが善照寺砦に到着したタイミングで
兵300程で今川軍に立ち向かうものの
大軍である今川勢の攻勢によって
千秋季忠*6らと共に討死したとあります。
この千秋季忠はなんとなく聞き覚えがあるかも?
「麒麟がくる」第2話で織田信秀が
稲葉山城下まで攻め寄せるものの
道三さまの策略によって大敗しましたよね。*7
その時に熱田神宮の大宮司も
織田軍に従軍していて
信秀が
熱田神宮の御加護もあるら
我らの勝利で間違いなし!
と盛大な負けフラグを立てていたのが
懐かしい(笑)
その時の熱田神宮の大宮司が千秋季光*8で
その子が千秋季忠です。
千秋季光は前述の戦いで討死してしまい
季忠が大宮司を継いだのですが
季忠も父と同じく戦で討死してしまったのです。
熱田神宮の御加護とは・・・
あ、でも桶狭間の戦いは織田軍大勝利だから
御加護があったのかな。
「麒麟がくる」の信長さまは
神頼みはあまり好みではなさそうですが(笑)
今川義元の誤算
「麒麟がくる」の桶狭間の戦いは
各陣営の様子が時系列に描かれていて
そこから伝わる臨場感が緊迫感にも繋がって
過去最高の桶狭間の戦いになった
ていうのは冒頭でも書きました。
従来描かれた桶狭間の戦いだと
大軍で勝利間違い無しと過信している
今川義元陣営の怠慢さが
信長さまの奇襲成功に繋がり
悪天候まで味方した
みたいに
『奇跡が生んだ大勝利』
というストーリが多かったと思います。
※桶狭間の戦いに関する創作物を全てチェックしているわけではないので、そうではないものがあるかもしれないですがw
ところが「麒麟がくる」では
前述のような時系列描写をしてくれたので
大軍を率いていた今川義元の敗れた理由が
誰の目に見ても説得力のあるものだったのでは
と思っています。
「麒麟がくる」では勝利間違い無しなはずの
今川義元にとって誤算がたくさんありました。
私が思うに以下に挙げる誤算が
戦況に大きく影響したのだろうと考えます。
- 信長さまの行動の速さ
信長さま自ら出陣し善照寺砦までやってきたことで織田軍の士気が高められてしまったし、今川軍の集結を阻まれたことは何よりも大きい。 - 鷲津砦と丸根砦を落とすのに苦労した
砦の守兵は思ってた以上に士気があり簡単には落とせなかった。逆に今川軍の体力・士気が下げられた可能性も。これは三河勢が大高城に留まったことや、鷲津砦を落とした朝比奈部隊の乱取りにも繋がったのでは。 - 松平元康率いる三河勢動かず
三河勢は丸根砦の攻略と大高城への兵糧輸送を休みなしで”やらされていた”。今川義元に都合よく使われている感があって、元康を始めとしてその家臣たちにも不満があったことは確か。疲労感満載のところへさらに下知が来たことで不満が爆発。しかも鵜殿長照の有無を言わせない態度はよろしくなかった。それらが原因で裏切りはしないが動かないという選択を松平元康にさせてしまった。 - 乱取りが原因で一部の部隊が制御不可能
せめて朝比奈泰朝の部隊を正常に制御できていれば、佐々隼人正たちの小勢に本隊から兵を割く必要はなかった。このさらなる兵力分散がなければ信長さまも、まだ動けなかったはず。 - 輿が自分の所在の目印に
当時今川義元が輿に乗れたのは将軍家から特別に許可をもらっていたから。つまり、輿に乗れるということ自体が高貴な者であることを示すステータスの一つであり、周囲へのアピールにもなったのだろう。しかし、それが返って自分の居場所をわかりやすくさせてしまい、大将首のみを狙う織田軍にとっては格好の的となってしまった。
この中でも3の松平元康部隊の不動は
とりわけ大きかったかもしれません。
三河武士は精強・屈強な武士として有名で
元康への忠誠心も強いと言われています。
鵜殿長照も褒めちぎってましたよね。
※あれは次の軍事行動のためのあまり中身のない賞賛だったかもですが(笑)
リーダーの元康が動くといえば
動いたんでしょうけれども
元康は、家臣たちの疲労も踏まえた上で
大高城から動かず兵たちの休息を選択。
信長さまも松平元康勢に
背後から襲われることを気にしていましたし
松平元康率いる三河勢が動いていたら
今川義元の討死は避けられたかもしれません。
そういう意味では一番の敗因は
今まで散々三河勢をこき使ってきた事かも(笑)
1.3.今川義元討死からの学び
今川義元に一番槍を入れたのは服部小平太
オープニングをぼけ~っと眺めてたら
「服部小平太」の名があって
もしかして今回限りで登場なの!?
とちょっと心が密かに踊りました(笑)
前回の記事でもちらっと書いた気がしますが
服部小平太とは「信長公記」で
「服部春安」の名で登場します。
そして桶狭間の戦いでは誰よりも先に
今川義元に一番槍を入れたものの
膝口を義元に斬り払われたために
毛利新介に大手柄を取られてしまうんです。
「麒麟がくる」では二人ぐらいが
今川義元と与している隙に
膝を槍でブスリとやった人が
服部小平太なんでしょうか?
セリフないから正直どれが服部小平太なのかは
よくわからなかった・・・(笑)
ちなみに「信長公記」では
これ以降、服部春安の名は出てきません。
弟の服部小藤太は本能寺の変の際に
出てくるんですけどね。
服部小平太は本能寺の変後も生きていて
後に豊臣秀吉の黄母衣衆*9として仕えています。
その後伊勢の松坂城主となり
伊勢の一志郡3万5千石を与えられ
朝鮮出兵*10でも渡海しているようです。
ただし豊臣秀次に付けられていたために
豊臣秀次失脚に連座して所領は没収。
その身柄は上杉景勝預かりとなった後に
切腹を命じられて果てたそうです。
そんな服部小平太を演じたのは
石原プロモーションに所属する池田努さん。
藤田伝吾役の徳重聡さんと同じ事務所ですね。
セリフないし、かなりのちょい役だけど
クレジットに名前があるのは
石原プロだからってことなんですか?(笑)
あとプロの画家さんでもあるらしいですね!
今川義元を討ち取った毛利新介
今回の桶狭間の戦いで
誰よりも一番脚光を浴びたのが
竜騎士ばりの跳躍からの槍の一撃で
今川義元を仕留めた毛利新介でしょう!
あの技はきっと何かしらのゲームで
実装されるはずだ(笑)
毛利新介が大活躍の回になるとは
誰しも考えていたと思うんだけど
ここまでインパクトのある活躍をして
「毛利新介」がトレンドにあがる
とまでは誰も予測できなかったのでは。
毛利新介を演じているのが今井翼さん。
病気療養のためにジャニーズ事務所を
2018年に退所した後、順調に回復して
今年の初めから舞台復帰されています。
NHKの大河ドラマへの出演はこれが3作目で
2005年の「義経」では
弓の名手・那須与一を演じました。
一撃必殺系と縁がある?(笑)
さて、毛利新介。
桶狭間の戦いでは
今川義元の首を討ち取ったわけですが
その際に今川義元が激しく抵抗して
毛利新介の指を噛み千切った
という逸話も有名ですよね。
「信長公記」には載っていませんが
「松平記」あたりに書いてあった話だったと
記憶しています。
毛利新介は桶狭間の戦いの後も
信長さまの側近として活躍しますから
今後も度々登場してくるのかな。
そして本能寺の変の際にも信長さまに従って
京にいました。
「麒麟がくる」では本能寺の変でも
あの抜群の跳躍力を見せることになるのか?
1.4.没した登場人物たち
こちらは「麒麟がくる」で亡くなった人たちを
弔うための章です。
亡くなった日については
Wikipediaの情報と「麒麟がくる」での情報を
照らし合わせてのものですが
人物によって諸説ありますので
あくまでも参考情報ということでお願いします。
- 天文16年(1547年)
織田信康(演:清家利一)享年不明 - 天文16年11月17日(1547年12月28日)
土岐頼純(演:矢野聖人)享年24歳 - 天文18年3月6日(1549年4月3日)
松平広忠(演:浅利陽介)享年24歳 - 天文20年3月11日(1551年4月16日)
小見の方(演:片岡京子)享年39歳 - 天文21年3月3日(1552年4月8日)
織田信秀(演:高橋克典)享年42歳 - 天文22年閏1月13日(1553年2月25日)
平手政秀(演:上杉祥三)享年62歳 - 天文23(1554年)
深芳野(演:南果歩)享年不明 - 天文23年7月12日(1554年8月10日)
斯波義統(演:有馬自由)享年42歳 - 弘治元年閏10月10日(1555年11月23日)
太原雪斎(演:伊吹吾郎)享年60歳 - 弘治元年11月12日(1555年12月24日)
斎藤孫四郎(演:長谷川純)享年不明 - 弘治元年11月12日(1555年12月24日)
斎藤喜平次(演:犬飼直紀)享年不明 - 弘治元年11月26日(1556年1月7日)
織田信光(演:木下ほうか)享年41歳*11 - 弘治2年4月20日(1556年5月28日)
斎藤道三(演:本木雅弘)享年63歳 - 弘治2年9月26日(1556年11月8日)
明智光安(演:西村まさ彦)享年57歳*12 - 永禄元年11月2日(1558年12月11日)
織田信勝(演:木村了)享年不明*13 - 永禄3年5月6日(1560年5月30日)
源応尼(演:真野響子)享年69歳*14 - 永禄3年5月18日(1560年6月11日)
佐久間盛重(演:室山和廣)享年不明*15 - 永禄3年5月19日(1560年6月12日)
佐々隼人正(演:内浦純一)享年39歳 - 永禄3年5月19日(1560年6月12日)
今川義元(演:片岡愛之助)享年42歳
1.5.参考資料
今回記事を書くにあたって主に参考とした書籍や
サイトをこちらでまとめて紹介しておきます。
興味持たれた方はご購入または閲覧してみてくださいね。
=織田信長の母と恋敵の現実= | 一般社団法人 生駒屋敷 歴史文庫
2.まとめ
第21話の学びはいかがでしたか?
桶狭間の戦いが神懸った勝利として
描かれなかったことと
そして、かつてない程の臨場感たっぷりな
戦に仕上げてくれたことに
とても感動しました。
何度見ても面白い桶狭間の戦いだと思います。
そしてどんどん十兵衛の主人公感が薄れて(ry
いやこの時期何してたかわからないので
仕方ないし、逆にあまり創作で入ってこられても
違和感ありまくになるだけなんですよね。
十兵衛は今はじっと耐える時期。
真の主人公になるまでには
もう少し充電期間が必要なのです(笑)
あと忘れちゃいけない大事なことを一つ。
斎藤義龍(高政)は
まだ生きてますからね?
なんかまだ先の話なのにナレ死しちゃって
もう「麒麟がくる」の世界から抹殺されてると
勘違いしてそうな人がいるかもなので
念のため義龍の代わりに主張しておきます。
でもあと1年ぐらいの寿命なのですが。
もしかして50話構成だったら
ナレ死じゃなかった可能性あるのかなぁ。
さてこの第21話で一端放送休止となりますが
桶狭間の戦いは一番ベストな
区切りなのかもしれませんね。
撮影再開はいつからかなと気にしていたら
6月30日から再開予定と決まったし
全44話放送する方針で進められてるそうなので
正座して行儀よく待っていようと思います!
麒麟がくるのを待っているのは
戦国の世だけじゃないのです!
演者の皆さんもスタッフの皆さんも
健康を害することなく
順調に撮影が進められることを
心より祈っております。
さて冒頭でも述べましたが
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオであれば
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
当日の放送や再放送も見逃してしまったとしても、いつでも視聴可能です。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。
そして「麒麟がくる」をもっと楽しむために
こちらの書籍もおススメですので
ご興味のある方は是非とも。
NHK出版 2019年11月30日
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では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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*1:冬姫の名で小説等で登場することがある。
*2:多分これは長良川の戦いで斎藤道三方が敗れたことを意味するのではないかと。
*3:信長さま配下の武将でも特に優れた4人の武将を表す『木綿藤吉(木下藤吉郎)、米五郎左(丹羽長秀)、掛かれ柴田(柴田勝家)に退き佐久間(佐久間信盛)』という歌がある。
*4:系図だと「成吉」「勝通」とあったりして文書上の裏付けはない。
*6:せんしゅうすえただ
*7:加納口の戦い。井ノ口の戦いとも。
*8:せんしゅうすえみつ
*11:「麒麟がくる」では今の所亡くなったことは語られていない。
*12:「麒麟がくる」の場合は長良川の戦いから数日後な気がするけどWikipediaベースで載せてます。
*14:「麒麟がくる」では亡くなっているかどうかの言及はなく、東庵先生も生死どちらとも取れる感じで話している。
*15:信長の野望ベースなら享年42歳。桶狭間の戦いの前哨戦、丸根砦の戦いで討死しているが「麒麟がくる」では語られていない。