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歴史人物語り#106 海道一の弓取り・今川義元と黒衣の宰相・太原雪斎

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今川義元太原雪斎大河ドラマではわりとお馴染みですよね。
特に今川義元は歴史通ではなくても
桶狭間の戦い織田信長に敗れたことで知ってる方も多いかと。
あまりこれぐらい有名な人物は歴史人物語りで
取り上げることはしないんですけど
2020年のNHK大河ドラマ麒麟がくるで学ぶ
麒麟で学ぶ」シリーズを書いていたら
ちょっとボリュームが増えすぎたので外出しにしました。

というわけで、今回のお品書きはこちらです。

1.東海道を席捲した今川義元太原雪斎

1.1.海道一の弓取り・今川義元

桶狭間で敗れたイメージが強い今川義元

今川義元永正16年(1519年)から永禄3年(1560年)まで生きた人。
戦国時代の中でもかなり著名な大名ですよね。
何故かと言えば桶狭間の戦い
織田信長による奇襲作戦によって首を討たれてしまったからでしょう。
歴史に詳しくなくてもこのことだけは知ってるって人も多いのでは。

ちなみに信長の野望シリーズの顔グラの変遷はこんな感じです。

海道一の弓取り・今川義元

基本的にお公家様っぽい大名のイメージの顔グラですが
最近だとそこに強さも感じる凛々しさも加わってます。
公家文化に精通していた人で、京の公家や僧侶との交流も多く
自らも公家のような化粧をしていたなんていう説があったりするので
公家色の強い顔グラになってるのでしょう。

東海道の覇者・今川義元

文化教養にも力を入れていた今川義元ですが
「海道一の弓取り」との異名を持つほど
東海道では幅を利かせており
甲斐の武田信玄相模の北条氏康と共に
東日本を代表する強大な勢力を築き上げていました。
しかしなんでこの三強こんなに近くに揃っちゃったのか・・・(笑)
まだ少し先の話ですがこの三強は天文23年(1554年)
そして甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)を結ぶことによって
それぞれの後顧の憂いを断ち
それぞれが直近で注力すべき敵に集中できるようになるのです。

それが織田信長との対決にも繋がっていくわけですが
当時天下に最も近いと言われるぐらい
実力のある大名であったことは確かなのです。

父・氏親が定めた分国法「今川仮名目録」

今川義元の父・今川氏親が大永6年(1526年)に定めた「今川仮名目録」は
東国最古の分国法としても有名です。
ちなみに甲斐の武田晴信(信玄)が天文16年(1547年)に制定した
分国法甲州法度次第」はこの「今川仮名目録」を参考にしたとも
言われています。
この分国法の制定は早くから守護大名から
戦国大名へと転身したことの証とも言われています。

父・今川氏親北条早雲の甥!?

今は北条早雲よりも伊勢宗瑞(いせそうずい)という名を使う方が
正しいのかもしれませんね。
伊勢宗瑞は生涯「北条」と名乗ったことはないそうなので。
ですがここでは便宜上、北条早雲の名で通させてください。

北条早雲といえば、戦国時代を代表する下剋上の申し子
今川氏親がその北条早雲の甥とはどういうことか。

今川氏親の父は今川義忠なんですが
母が伊勢盛定の娘・北川殿と言われています。
そう、この伊勢盛定北条早雲の父と言われているんです。

しかも縁戚関係にあるというだけではなく
今川氏親家督を相続する際に起きた争いでは
北条早雲が調停役をおこなっていますし
一時期は今川氏親の武将として活動していた時期もあるぐらいなんです。
意外と縁が深いんですよね、今川氏と後北条氏って。

今川義元は嫡男ではなかった

今川義元は幼き頃から力のある大名家の子として
順風満帆に生きてきたのかと思いきや
全然そんなことはありません。

そもそも今川義元今川氏の嫡男ではないのです。

今川氏親四男(または三男)であり、
嫡男は義元より7つ年上の長男・今川氏輝でした。
ただし、今川氏輝享年24歳という若さで亡くなってしまいます。
病弱だったため流行り病で亡くなったとも、
毒殺や暗殺によって殺されたなど諸説あるようです。

氏輝には子がいませんでしたから自動的に継承権は
次男の今川彦五郎へとうつります。
ところが彦五郎は
なぜか氏輝の亡くなった日と同日に亡くなっています
そしてこの今川彦五郎については、
この死んだ日のことしか記録に残っていないという奇妙なお話。
まぁなんかきな臭い匂いを感じちゃいますよね(笑)
※ただし彦五郎に関しては出生や存在自体について諸説あります。

いずれにしても氏輝と彦五郎が亡くなったことが
家督争いの大きな火種になります。
義元にはもう一人の兄・玄広恵探(げんこうえたん)がいたのですが
玄広恵探側室の子だったんです。
玄広恵探正室寿桂尼の子であれば
家督相続争いにはならなかったかもですね。

ちなみに信長の野望シリーズだと
今川良真(いまがわよしざね)の名で登場しています。

今川義元の異母兄・玄広恵探こと今川良真

読み方って「ながざね」じゃないのかな?

還俗して「義元」に。そして花倉の乱

今川義元は嫡男ではありませんでしたから
出家して栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名乗っていました。
ちなみに義元の教育係であり共に京の建仁寺で修業をしていたのが
義元の腹心となる太原雪斎

氏輝、彦五郎が亡くなり相続するのは
三男の玄広恵探かと思いきや玄広恵探は側室の子。
一方で義元は亡くなった二人の兄同様に
氏親の正室寿桂尼の子でした。

となると当然、正室の子である弟の栴岳承芳
次期当主に推す家臣たちが出てくるわけです。
そして家臣たちに還俗を乞われた栴岳承芳
「義元」と名乗るわけです。
ちなみに「義」の字は
当時の室町幕府第12代将軍・足利義晴から編諱を賜っています。
足利義晴は「麒麟がくる」でもお馴染みの足利義輝の父ですね。

tsukumogatari.hatenablog.com

 しかし側室の子だろうと継承権は玄広恵探にあると
主張して対立したのが玄広恵探の母の一族・福島氏です。

福島氏は当時遠江や甲斐方面の外交や軍事を司っていた
有力な今川氏被官であり、武田氏の後ろ盾も得ることができました。
ちなみに玄広恵探の母は福島正成(くしままさしげ)*1の娘とも。

北条綱成の父とも言われている福島正成

福島正成とは別人の福島越前守の説もあり。NHK大河ドラマ風林火山』ではこちらの別人説をとっていました。
福島正成といえば後北条氏に仕えた地黄八幡で有名な
北条綱成(ほうじょうつなしげ)の父とも言われている人です。

地黄八幡・北条綱成
信長の野望・創造 戦国立志伝だと
北条綱成福島正成の子どもの設定のため、
福島正成が生存しているシナリオで始めると
北条綱成が「福島綱成」として
今川家臣になってたりするんですよね(笑)

ちょっと話がそれちゃいましたが
そんなわけで玄広恵探を当主として福島氏が反旗を翻し
花倉の乱という今川氏のお家騒動へと発展するのです。
これが天文5年(1536年)のことです。

甲斐も相模も巻き込んだお家騒動

武田氏を味方につけた玄広恵探側は今川館に襲撃をかけるものの
今川義元側についた太原雪斎岡部親綱らの奮戦もあって失敗に終わります。
しかし方ノ上城(かたのかみじょう、現在の焼津市)や花倉城(はなくらじょう、現在の藤枝市)を
拠点として対抗することで遠江で同調するものもあらわれます。

しかし後北条氏今川義元側に回ったことをうけて状況が一変。

後北条氏の支援を受けた今川義元側の岡部親綱が方ノ上城を攻めて落城させます。
さらに玄広恵探のいる花倉城を攻め立てると
玄広恵探は堪えきれず逃亡し、瀬戸谷の普門寺で自刃したそうです。

周辺諸国も巻き込む形で発展した今川氏のお家騒動はこれにて収束。
今川義元は自身の家督相続を宣言し、
海道一の弓取りへの道の一歩目を踏み出すのです。

花倉の乱以降から「麒麟がくる」美濃編の天文17年辺りまで

花倉の乱を治め、正式に家督を相続した義元ですが
それでもまだ盤石ではありませんでした。
花倉の乱を治めたとはいえ
まだ家中の統制が取れていたわけではなかったのです。

そこで義元は父・氏輝の代より争い続けてきた
甲斐の武田信虎と同盟甲駿同盟を結びます。
信虎の娘・定恵院を義元の正室として迎えるのです。

ところがこの同盟に怒ったのが後北条氏
当時の後北条氏当主は北条氏綱
北条早雲の子であり北条氏康の父です。
甲斐との同盟を良しとしなかった氏綱は
河東(現在の静岡県東部)へ侵攻し領地を奪ってしまいます。

以後、後北条氏とは後々に三国同盟を結ぶまで
何度も争うことになります。
一方で、武田氏とは共に信濃佐久郡侵攻をおこなうなど
協力関係を保ち続け、父・信虎をクーデターにより追放した
武田晴信(信玄)の代になっても同盟関係は保たれました。
これが天文10年(1541年)ごろの話です。

この段階では今川義元の敵は
相模の後北条氏(氏綱は亡くなって氏康が後を継いでいた)と
尾張織田信秀です。
特に北条氏康に対しては河東を奪われた恨みもあってか
徹底的に追い詰める動きに出ます。

天文14年(1545年)北条氏康と敵対している
関東管領上杉憲政山内上杉家)と同盟を結び
北条氏康を東と西から挟み撃ちにしようと企てます。
武田氏の援軍も得た義元は奪われた河東に侵攻する一方で
上杉憲政および扇谷上杉家上杉朝定8万の大軍を結成
河越城を包囲します。
兵力を西と東で分断せざるをえない氏康は苦境に立たされ
河東での戦いは今川軍が勝利を収めます。

もはや絶体絶命の北条氏康今川義元と和睦するために
武田晴信に仲介を頼みます。

今川義元北条氏綱の代に奪われた河東の地と引き換えを条件として提示
氏康としてはもはや背に腹は代えられない状況ですから
この条件をのまないわけがありません。
今川氏と後北条氏の和睦が成立するのです。

氏康はこの義元との和睦によって西からの攻撃される心配がなくなり
河越城を囲む上杉憲政上杉朝定との戦いに集中し見事勝利を収めます。
日本三大奇襲の一つ「河越野夜戦」とも言われる河越城の戦いですね。
これが天文15年のことです。

義元は、後北条氏から奪われていた領地を取り返し
和睦したことによって後北条氏との争いも一段落。
そこで義元が次に狙うは三河尾張
三河松平広忠が今川氏に帰順の意向を示しているので
当面の目標は尾張を手に入れること。

尾張には守護代の家臣とはいえその豊かな財力で
勢力を拡大してきた織田信秀がいますが―。
という流れの中で起きたのが「麒麟がくる」第4話あたりで起こった
小豆坂の戦いなわけです。

小豆坂の戦いは痛み分けといいつつ
織田軍の疲弊ぶりから見ると今川軍の勝利だったのでは(笑)
果たして次なる織田軍との戦いはどうなるのか。
次は後述の太原雪斎のところで書いている
三河安祥城攻めなんでしょうけどね。

1.2.今川義元の名補佐役・太原雪斎

太原雪斎の出自

太原雪斎今川義元の右腕的存在。
「黒衣の宰相」とも。

黒衣の宰相・太原雪斎
大河ドラマ今川義元が登場するのであれば
確実に太原雪斎もセットで登場します。
今川義元の軍師といえばわかりやすいでしょうね。
※戦国時代に軍師という立場の役回りは存在しなかったそうですが。

さて太原雪斎
明応5年(1496年)から弘治元年(1555年)まで生きた武将であり僧侶。
雪斎は号であり、諱は崇孚(そうふ)
見ながらでも書けるか不安な漢字です(笑)

父は庵原政盛(いはらまさもり)という今川氏の家臣。
母は興津横山城主の興津正信の娘

庵原氏は駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める
今川氏の重臣の一族だったそうですし
興津氏は海運を掌握し水軍も率いていたのだとか。

庵原氏っていうとNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」に登場した
庵原助右衛門(いはらすけえもん)が記憶に新しい方もいるのでは。
庵原助右衛門(朝昌)も太原雪斎と同じ庵原氏の一族なんです。

今川義元の教育係

今川義元と初めて出会った頃の雪斎は、
九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗っていました。
そして当時まだ芳菊丸という幼名を名乗っていた
今川義元の教育係となります。
元々は別の教育係・承舜がいたのですが
亡くなったために雪斎がその後を継いだそうです。
これが享禄2年(1529年)頃の話と言いますから
雪斎は27歳、義元は11歳。
私にもこの義元ぐらいの年ごろの時に雪斎のような家庭教師がついていれば・・・(笑)

27歳っていったら現代社会でいえば
大卒なら就職してそれなりに仕事の経験もしたぐらい。
ちょうど下に誰かつけてもいいぐらいじゃないですかね。
まぁ義元は雪斎の上司なんですけど(笑)

雪斎と義元は京の建仁寺に入り常庵龍崇(じょうあんりゅうそう)の下で
修行をしたそうです。

そして享禄3年(1530年)に得度の儀式をおこなって義元は承芳と名を改め
その後、二人はさらなる修行のために善得院から建仁寺、さらに妙心寺へと移ります。
その間に義元は道号「栴岳」を与えられ栴岳承芳と名乗ったのだとか。

雪斎はこれだけ小さい頃からずっとそばにいた年長者ですから
義元が後年になっても頼りにするのはよくわかりますよね。

ちなみに雪斎はこの当時から秀才として有名だったそうで
義元の父・氏親は何度か今川家に仕えるように要請したそうですが
雪斎はその要請を断ったと言われています。
その理由は義元の才に魅かれて、だったりするんですかね。

花倉の乱、そして今川義元の側近として

義元のところでも書いたので細かくは書きませんが
雪斎と義元が修行中に、今川氏親が亡くなり
さらには次男の彦五郎が同日に亡くなったことで
義元に家督相続の白羽の矢が立ちます。

ただそこには異母兄・玄広恵探との家督相続争いが起きるわけですが
太原雪斎の尽力もあって玄広恵探派の起こした花倉の乱を治め
今川義元正式に今川氏の家督を相続することとなります。

雪斎の功績を多大に評価し、さらなる信頼を厚くした義元は
政治、軍事、外交全てにおいて雪斎を重用することになるのです。

特に雪斎の活躍として有名なのは甲相駿三国同盟(善得寺の会盟)でしょう。
雪斎が甲斐の武田晴信相模の北条氏康と交渉したことによって
この三国同盟が成立したと言われています。

また軍事面では後北条氏山内上杉氏と挟撃することで
奪われていた河東領を取り戻したり
小豆坂の戦いでは織田信秀を打ち破っています。
麒麟がくる」ではその時に受けた矢傷が原因で
織田信秀の体調が傾きかけていますよね。

それから織田信秀に奪われていた松平広忠の嫡男・竹千代
取り戻したのも太原雪斎です。
※元々竹千代は今川氏の人質になるはずだった。
天文18年(1549年)11月に三河安祥城を攻めて
織田信秀庶子織田信広を捕縛し竹千代との交換条件にしたのです。
竹千代に学問や軍学を教えたのも太原雪斎だ、なんていう話もありますね。

雪斎が行った事績を書き連ねていったら
まだまだ書き足りないわけですが
もしも桶狭間の戦いの時に、雪斎が存命であったなら
今川義元が討たれることもなかったかもしれない
と言われるぐらい大きな存在だった雪斎は
桶狭間の戦いの起こる5年前、
弘治元年(1555年)閏10月10日
駿河長慶寺で亡くなっています。
享年60歳でした。

1.3.参考資料

今回記事を書くにあたって主に参考とした書籍や
サイトをこちらでまとめて紹介しておきます。
興味持たれた方はご購入または閲覧してみてくださいね。

駿河今川氏十代 (中世武士選書25)

駿河今川氏十代 (中世武士選書25)

  • 作者:小和田哲男
  • 発売日: 2015/01/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

お歯黒、馬にも乗れない「軟弱武将」今川義元はこんなにも凄かった!

今川氏親 - Wikipedia

今川氏輝 - Wikipedia

今川彦五郎 - Wikipedia

玄広恵探 - Wikipedia

今川義元 - Wikipedia

太原雪斎 - Wikipedia

2.まとめ

今回は今川義元太原雪斎
当時の最強タッグといっても過言ではない二人です。

今川義元大河ドラマによって
雰囲気が公家寄りだったり戦国大名寄りだったりしますが
2020年のNHK大河ドラマ麒麟がくる」では後者なので
しばらく公家っぽい今川義元のイメージは
封印されるのかもしれませんね。
なんだかんだでテレビの影響は大きい(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!


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*1:姓はふくしま、名はまさなりとも