今回は山崎片家(やまさきかたいえ)から始まり
山崎家盛(やまさきいえもり)、
山崎家治(やまさきいえはる)、
と代を重ねるごとに大身へと出世していった近江山崎氏について。
山崎片家は本能寺の変後、明智光秀に降伏していますので
「麒麟がくる」でも登場するかもしれませんね。
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ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たちは その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。 まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。 通称源太左衛門。 山崎氏といえば歴史人物語りシリーズでは 山崎片家は彼らとはまた別の近江山崎氏の系統。 観音寺騒動で六角義治に誅殺された後藤賢豊(ごとうかたとよ)と 織田信長に仕えてからは信長直臣の近江衆として とりわけ天正伊賀の乱での戦功は目覚ましく そして1582年、本能寺の変が発生します。 明智光秀は織田信長を本能寺で斃します。 蒲生賢秀は信長の横死を知るやいなや 清須会議の後は しかし翌年1591年5月21日に伏見自邸で亡くなったということです。 山崎片家の妻は また娘は加藤清正の最初の正室と言われています。 通称源太左衛門。 ちなみに妻は池田恒興の娘です。 母は池田恒興に仕えた家臣・池田教正の娘と言われていますから 山崎家盛は1592年の文禄の役では そして1600年。 ただ元々家康に味方することを決めていた山崎家盛は 関ヶ原の戦いは予想に反してあっという間の決着で東軍の勝利に。 ただし、1614年享年48歳で亡くなってしまいます。 通称左近。 これによって因幡若桜3万石から備中成羽3万5千石に加増転封。 さらに山崎家治は、当時「知恵伊豆」と称された松平信綱ら 天草での働きも評価されて 「麒麟がくる」では登場するなら山崎片家。 「麒麟がくる」では本能寺の変の直前から そして信長の野望シリーズでは山崎氏3代いずれも登場しています。 山崎家治の評価が高いのは 今回は同族の六角氏を見限って織田家へ転身した では今回はこの辺で。
以下の一覧記事にまとめてあります。1.山崎片家(やまさきかたいえ)とは
生年1547年。父は山崎宗家。
越前の山崎吉家(やまさきよしいえ)や山崎長徳(やまさきながのり)が
既に登場しています。
宇多源氏佐々木氏の支族の一つであり、
つまりは宇多源氏佐々木氏嫡流の六角氏とは同族となります。
山崎片家は六角義賢(ろっかくよしかた)の代からの臣であり、
初名は「秀家」でしたが六角義賢から偏諱を受けて「賢家」と称していました。
※便宜上、ここでは名前を「片家」で統一しています。
しかしこの山崎片家、
六角義賢の嫡男・六角義治とは折り合いが悪かったようです。
さらにその仲違いを決定づけたのが観音寺騒動です。
山崎片家は親しい間柄で、縁戚関係でもありました。
※山崎片家の妹が後藤賢豊の嫡男・高治の妻でした。
六角義治の独断によって断行された後藤賢豊の誅殺によって
多くの家臣団が観音寺城を退去し所領に立て籠もりますが
山崎片家も同様の行動をとり居城・山崎城で籠城します。
そして1568年に織田信長が
上洛戦協力を断った六角氏を討伐するため近江へ侵攻してきた際には、
六角氏から織田氏に鞍替えし
織田氏の軍勢と共に六角氏を攻めます。
そしてこの時に六角義賢の「賢」の字を捨てて
「山崎片家」と名乗るのです。1.1.織田家臣時代
以下に示すような数々の戦に参戦。
四方八方敵だらけの中、
各地を転戦し伊賀平定に貢献したそうです。
また1582年には甲州征伐から凱旋した織田信長を
居城で茶屋を立てて饗応しています。
元々茶道にも造詣が深く、
堺の豪商で茶人としても有名であった
津田宗及(つだそうぎゅう)の茶会にも度々出席していたようです。1.2.信長が斃れた後は秀吉の家臣として出世
山崎片家は当時、安土城にいました、。
※居城の山崎城には嫡男の山崎家盛が在番していた。
同じく安土城を守備していたのが蒲生賢秀(がもうかたひで)。
日野城から息子の蒲生氏郷(がもううじさと)を呼び寄せて
信長の御台所さまたちを日野城へ避難させて籠城しました。
山崎片家も安土城の自邸を焼き払った上で居城の山崎城で立て籠もります。
しかし、明智光秀の圧力には勝てず
一時は明智軍に加わり佐和山城の占拠にも協力しました。
しかし、山崎の戦いには参戦せず、
明智光秀が羽柴秀吉に討たれると
すぐさま秀吉に降伏して所領を安堵されています。
山崎の戦いに参戦しなかったことが評価されたのか
1582年の末には摂津国三田城主2万3千石へ移封となり大名へと出世します。
織田信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)に仕えていた時期もありましたが
秀吉と信雄が対立するようになると秀吉について
1584年の小牧・長久手の戦いでは
秀吉方として750の兵を率いて参戦しています。
1585年に従五位下志摩守に叙任されてからは
秀吉の家臣として落ち着いたようです。
1590年の小田原征伐では1000騎を率いて従軍し
武蔵国岩槻城(いわつきじょう)攻めに参加しています。
享年45歳。
家督は嫡男の家盛が継ぎました。1.3.山崎片家の妻と娘
摂津のキリシタン大名・池田教正(いけだのりまさ)なんですが
継室として池田秀氏の娘をもらっているので
最初の正室とは生き別れてしまったのかもしれませんね。
息子の百助が一時期加藤清正の養子になっていたこともあるなど
加藤清正とは縁が深かった様子。
加藤清正と山崎片家の娘との間の子が
嫡男の虎熊と言われていますが
妻と虎熊の2人とも、朝鮮の役以降の消息が不明であることから
その前後ぐらいで亡くなってしまったのではないかと推測されています。2.山崎家盛(やまさきいえもり)とは
生年1567年。父は山崎片家。
生まれたのは父が六角氏にまだ仕えていた頃ですが
元服したのは織田信長が本能寺で討たれたぐらいの頃でしょうか。
いずれにしても元服してからしばらくの動向は伝わっておりません。
1591年、父・片家が亡くなるとその遺領を継いで
摂津国三田城2万3千石の城主となり、
同年に従五位下左馬允に叙任されています。
当時まだ24歳、
現代でいえば学部卒なら就職して2年目ぐらい、
なかなかの大役でしょうね。
池田氏との繋がりが深かったのかもしれません。
秀吉に従って本陣の御前備衆として800の兵を率いており
対馬の防衛と軍艦の輸送を任されていたそうです。
また肥前名護屋城西の丸の守備もその後担当しています。
1594年には伏見奉行の普請も分担されました。
1598年に秀吉がなくなると遺物として道永の刀を受領しています。
秀吉からは父同様に信頼されていたのだろうと思われます。2.1.関ケ原では東軍につきたかったのに・・・
天下分け目の戦では
東軍の徳川家康に与するつもりでいたようです。
何故なら会津征伐で下野国小山にいた徳川家康に
石田三成の挙兵を伝えているからです。
※弟の宮城頼久の養父・宮城 豊盛と共に伝えたとか。
しかし、石田三成に催促されて大坂城で面会した結果、
西軍につくことになってしまいます。
西軍勢で多くを占める位置にいては
呼び出されて断ることもなかなか出来なかったのでしょう。
結果、小野木重勝(おのびしげかつ)らと共に
細川藤孝(幽斎)の守る丹後田辺城攻めに参加します。
積極的に攻めることはしなかったそうです。
加えて細川藤孝の弟子が田辺城を攻める側に多くいたことなどもあって
攻めるのを躊躇するものも多くいるなど
戦は膠着状態が長引いて落城までに時間がかかり、
田辺城攻めに参戦した西軍部隊は関ケ原本戦に間に合いませんでした。
結果的に西軍に与した山崎家盛は改易処分でもおかしくない状況。
しかし、義理の兄・池田輝政が尽力してくれたことや
開戦前に三成挙兵の報告をしたことが評されて
改易処分とはならず、
所領も据え置きで安堵されました。
※一説には徳川家康の娘であり、池田輝政の妻・督姫を大坂城から脱出させた功があったとも。
そして同年または翌年には因幡若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう)に転封。
同時に7千石を加増されて3万石となります。
さらに従四位下侍従にも叙任。
西軍側についたけど加増されてるし官位も叙任されてるし
結果何も損しないどころか得をしている。
意外と運がいいのか抜け目ないのか、どちらでしょうか。
父片家も45歳で亡くなっていますが、
二人とも死ぬにはまだちょっと早い気がしちゃいますね。。。3.山崎家治(やまさきいえはる)とは
生年1594年。父は山崎家盛。
長男ですが
母は正室の池田恒興の娘ではなく
側室だったようです。
しかし、父・家盛の後を継いだのはこの家治でした。
家督を継いだ翌年には大坂冬の陣が起こりますが
従軍して中之島に陣を敷いています。
※このとき、弟の久家が戦死したそうです。
さらに大阪夏の陣においては、
池田利隆(池田輝政の長男)の部隊に所属して
首級6個の戦功をあげるなど大活躍。
山崎家治は内政にも明るく新田開発などにも精を出したそうです。
また築城の名手でもあったそうで
1620年の大坂城築城工事では、
天守・本丸・二の丸の石垣構築を任されたそうです。
幕閣からの信任を得て島原の乱鎮圧後、
1639年に肥後天草4万石に加増転封となりました。
ここでも得意の内政に手腕を発揮。
島原の乱によって荒廃してしまった土地の復興に努めます。
1641年には讃岐西半分を支配領とする、
讃岐丸亀5万3千石の丸亀藩に加増転封となりました。
入国当初は寺院を宿舎としていたそうですが
1642年に廃城となっていた丸亀城に新しく城を造営することを許され
白銀300貫を与えられた上、参勤交代も免除されたそうです。
丸亀では得意の築城スキルを発揮し、
城下町の経営・整備もおこないます。
今日の丸亀の基礎を築いたのは
この山崎家治の治世が元といわれるほどです。
しかし残念なことに新丸亀城の完成を見届けることなく
1648年、享年55歳で亡くなってしまいました。
新しい丸亀城はそれから12年後の1660年にようやく完成したそうです。
※この頃には山崎家治の嫡流が途絶えており、京極氏が治めていた。4.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの山崎氏
自ら進んで与したわけではありませんが
明智光秀に降伏して、
一時的にはその戦力としての働きを見せています。
本能寺の変から山崎の戦いの間の過程では
主要な人物の一人として
登場してくる可能性はあるかなと思っています。
息子の家盛と孫の家治は時代が明らかに違うので論外ですけどね。
山崎の戦いまでがどれぐらいの厚みで描かれるのかが
興味深く一番楽しみなところです。
あまり奇を衒うような展開にはせず
わりと妥当な説でまとめてくるんじゃないかと
予想はしていますが
本能寺の変を起こすまでのストーリーと
どう繋がるのかっていのも楽しみですよね。
ただ山崎家盛は創造からの登場の新顔です。
山崎片家と山崎家盛は天翔記で登場後、
1つ飛ばして烈風伝から連続登場している常連武将です。
能力値的には、
片家と家盛は凡庸な武将に仕上がっている一方、
新顔でちょっと活躍時代が江戸時代になってしまう家治は
優秀なステータスになっています。
信長の野望・創造 戦国立志伝での3人の評価値はこちらです。
内政や築城での功績が残っているためでしょうね。
天草の復興や丸亀城下の基盤造りが大きいのでしょう。
片家と家盛は、
あんまり目立った事績が残されていないために
こういう評価値になってしまっているのかなと。。。
ただ、山崎片家は秀吉家臣時代に
小田原征伐で浅野長政と共に都督を任されたりしていますし
秀吉からの信任は厚い方だったと思うし
優秀な人だったんじゃないかと思っています。
まぁゲームだといろいろバランスも考えないといけないし
際立つ伝説みたいなのが残ってないと
高評価を付けられないっていうのも
理解はしています(笑)5.まとめ
山崎片家から続く、近江の山崎氏でした。
山崎片家の代から大名に成り上がり
山崎家盛、山崎家治の代でも
順調に功を重ねて石高も増加していったのですが
家督を継ぐ人がわりと短命で
山崎家治の孫の山崎治頼は
3歳で家督を継ぐものの8歳で亡くなってしまい、
無嗣断絶となってしまうんですよね。
山崎治頼の叔父で後見役の山崎豊治が
幕府から旧領5千石を与えられて旗本となって
家名は明治維新まで続くんですけどね。
山崎氏みたいなケースは結構あって
江戸時代は270年近く続いていますけど
この一時代を通して生き長らえた大名家は
果たしてどれぐらいいるのかとか、
調べたことないから今度調べてみるのも面白そうです。
ここまで読んでいただきありがとうございました!